筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
旅行ブームだが、行ってよかったという思い出を容易に作られないようだ。
山深い温泉へ出かけて失望した例。料理に、マグロやイカの刺身が中心だった。こんなのは、もっとも多い不満だろう。全国に流通網が発達している。
30年くらい前の話だ。わたしの友人は電機技師で、徒歩でしか入れない山奥にも出かけた。それも半月とか一カ月なら短いほうだ。そんな場合は、できるだけ現場に近い民家のような旅館へ長期宿泊しなければならない。
おばあさんが一人でやっている民家旅館へ泊ることになった。
最初の夕食にヨーカンみたいに乾いたマグロの刺身が出た。うまくはないが、食べるしかない。ところが、翌日も、その次も右に同じだ。山奥の仕事で楽しみといえば晩飯くらいのものだ。それがこれでは。
辛抱できなくなって、普段はもっとまともなものを食べているという言葉は飲み込んで、なんとか他のものにしてもらえないかとお願いした。
マグロは嫌いですか。都会のお客さんだから張り込んだんだけど。と呟かれて人情家の彼は困った。悪いことを言ってしまった。たぶん、行商かなんかから上等ではないが安くもないマグロをわざわざ仕入れてくれていたのだろう。
他には、何も無いがねえ。いやいや、いつも食べておられるものと同じで結構です。わたしも育ちは田舎です。それなら猪肉とか、山菜みたいなものになりますが。おおいに結構です。大好物です。
翌日からは、おばあさんと二人で囲炉裏を囲む。とても、いい思い出になったらしい。
本格的な観光地での話と同じにはできないが、何か大事なことが潜んでいるのではあるまいか。
わたしもだいぶ温泉宿に泊まったが、地元料理に感心した記憶はほとんどない。普通の旅館で格別の味わいを演出するような宿がおいそれとは見つからない。一度有名になれば、それで万事休すだ。物見遊山で格別の思い出ができるとしたら、それはひとえに本人の心がけであろう。
かつて講演で全国を走り回ったが、前後に余裕があっても、いわゆる観光客になったことはほとんどない。本来が出不精であるが、旅人は所詮「たびにん」だと思っている。当時は、仕事に傾倒することによって、いろんな出会いや思い出が残った。