筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
――ポピュリズムの時代とその背景について学んだ。例外的経済成長の時代に確立された既成政党と、その支持基盤としての中間団体が、経済・社会の変容とともに凋落した。そこに、政治的要求の実現回路を持たない無党派層・無組織層が出現し、自分たちを代表しないとして、既存政治の既得権益と政治エリート批判し、左右ポピュリズムが台頭する。日本にも、同様の潮流が見られる。
しかし、直近の日本の選挙では、事の真偽を超えて民意が流動化し、選挙結果を左右するという事象が起こった。このことには、ポピュリズムだけでは説明できない深淵な問題があると、私は考える。
労働組合とその運動は、社会改革の主体として、このような時代の認識をもち、どのような運動戦略により、その存在意義と価値を発揮すべきなのか、真剣に考えなければならない。
ポピュリズムの時代とその背景
私が参加するプロジェクトの最終回に、「ポピュリズムの時代の政治変容―中抜き・分極化」と題し、政治学の教授からの講義があった。(*1)これまでの主要な政治勢力であった既成政党が凋落し、代わりに、左右のポピュリズム政党が台頭するという、世界的潮流が概説された。
ポピュリズムとは、人民(民衆)に依拠して、政治エリートを批判し、人民の意思を直接政治に反映させることを主張する急進的な改革運動と定義される。(*2)
既成政党は、国家と個人を媒介し、市民の政治的社会化機能を果たしてきた中間的な組織や集団の利害を代表することをもって、それを支持基盤とした存在であった。しかし、経済のグローバル化、産業構造変化、資本の利潤率の低下、人口構成の変化、情報化等、これらの要因から、この中間的な組織や集団は凋落した。そこから、政治的要求実現の回路を持たない、無党派層・無組織層が増大した。教授は、それを国家と個人を媒介する存在を失った「中抜き社会」と称した。
この無党派層・無組織層にとっての既成政党の存在は、これまでの支持基盤の既得権益を守る存在であり、また、自分たち生活者の意見を代弁しないエリート的な存在でもあり、私たちを代表していなものなのだとして、この間隙を突いたのがポピュリズム政党である。
また、グローバル化・情報化の進展は、自分たちには手の届かない問題にもかかわらず、自分たちの生活を左右してしまうという不安に苛まれる「分極化」が、さらに、このポピュリズムを助長するのだという。
日本も、同様の潮流にまみえているとも思える。既得権益打破を謳う「日本維新の会」、この「維新」を欺瞞として批判する「れいわ新選組」、先の衆議院選挙で「手取りを増やす!」を旗頭に躍進した国民民主党等の存在が、あげられるかもしれない。
民主主義の危機と思える問題現象
今年、複数の選挙において、ポピュリズム指摘されるが、すべてそうだとは言い切ることのできない問題現象が相次いだと感じている。一つは、東京都知事選挙において政党を支持基盤としない石丸氏の躍進である。二つ目は、前掲したが国民民主党の躍進である。三つめは、公益通報者保護法違反、パワハラ、おねだり等を疑われ失職した、斎藤前兵庫県知事の再選である。
いずれの選挙も、勝利(躍進)した側が、既得権益の存在や既存の体制に対するアンチテーゼ等を含むから、ポピュリズムの潮流を汲むものとされる。それに重ねて、有権者の投票行動の判断が、既存メディア(TV、新聞)からSNS(X、YouTube等)へシフトし、それが大きな影響力となり、選挙結果を左右したと、巷間では分析されている。
しかし、私はその分析には留まらない大きな問題を感じる。この三つの選挙に共通するのは、物事の真偽を度外視して、民意が短期間に流動化し(SNSがこれに機能した)、選挙結果を予想外に左右したというものだ。
このことは、知性の力をもって、自分として問題の真偽を質し、他者との熟議をもって共同の意思決定を成立の条件とする、民主主義社会の危機だと、認識すべきではないのだろうか。
哲学者の内田樹は、これらの問題現象について、「あっという間に形成される多数派ほど無内容で危険なものは無い。」(Xより)と、警鐘を鳴らした。(*3)
大きな時代認識と日本社会の問題
以前、連合の運動論の検討についての論文を書いた。(*4)そのなかで、運動の起点となる大きな時代認識について、「近代という時代条件」と、日本の「ポスト工業社会」という問題を提起した。
まず、「近代という時代条件」では、人びとが伝統社会の頸木(くびき)から解放されて自由になり、一方、人間としての根源的な所在なき不安が生じるとした。また、近代では、一握りの人が持っていた情報が多くの人びとのものなるとともに、情報が瞬時に世界を駆け巡る情報化社会の進展は、安定したものが存在し難くなり、予測可能性を著しく低下させる、「再帰性」(行ったものが戻ってくる)が徹底する。このことが、人間の所在なき不安を、さらに高めていく。このような大きな時代変化を基底として、今日の日本社会がある。
日本の「ポスト工業社会」という問題では、敗戦後の高度経済成長という例外的経済状況のもとに形成された日本型工業社会の社会構造が、溶融していることを指摘した。この社会構造は、その前提条件となった産業構造の変化とともに経済成長が消失し、機能不全に陥っている。(中間団体の凋落も軌を一にする。)経済格差の拡大、社会保障の機能不全、非正規・低賃金労働の拡大、貧困の再生産など、人びとは、自らが報われない不満に苛立ち、将来不安に怯えている。
この近代という時代は、資本主義とともに進展してきた。資本主義は、それ以前の人間本来の暮らし方生き方としての共同体とその伝統を破壊し、それを市場に組み込んで利潤の源泉として、その増殖・蓄積を図ってきた。
とりわけ、敗戦後日本の産業資本主義による急激な経済成長は、日本人の道徳の母体としての側面を持つ共同体(地域・家族)を空洞化させるとともに、生活領域のシステム化(市場化)を加速させ、人びとを代替え可能な存在として孤立させてきた。
ここに、人びとの「自己承認の供給不足」が生じるとともに、共同体の道徳という後ろ盾を失ったがゆえ、良いことをしたくて、何が良いことなのかを求めるが迷う。(これが真偽の正しさを度外視してしまう)「さまよえる良心」の存在があると、宮台真司は指摘する。(*5)
「近代という時代条件」「例外的経済成長の時代の日本社会構造の変容」、そこに生きる人びとの、所在なき不安、孤立していることへの不安、解決しない問題への不満や苛立ちが、溜飲を下げ、自己承認への欲求を充足することを、強く求めている。その道具の一つがSNSであり、これが物事の真偽を度外視した判断と投票行動につながったのではないだろうか。
人間の本性は、自分を突き詰める苦を回避し、その苦を、なんらかの輝き(神話とも言える)を見出し、それによって眩暈(めまい)を覚えることで補おうとする。このようにして、人間社会が大きな過ちを繰り返したことは、歴史が明らかにしてきた。日本の直近の選挙における問題現象が、このことと類比的なものであるように思う。私はそこに、民主主義の危機を感じる。
このような時代の労働組合運動
話は文頭に戻るのだが、教授は、この「中抜き社会」と「分極」の時代に、かつて政党の強力な支持基盤として存在した労働組合に対して、改めて中間団体としての自覚を持てと提起する。
そして、その戦略的要点は、中間団体として国家と国民を媒介する結節点となり、国民の政治的社会化機能を担うことを、社会の分極化の対抗軸として、普遍的視点と生活者的視点の交差する場を創造し、社会の在り方・社会システムのイノベーションの発火点となって、労働組合の存在意義を発揮し価値を提供せよという。
私も、この問題提起に共感する。前掲の私の論文のなかで、提起した連合の運動戦略は、労働組合が多様な社会運動の触媒・結節点となる「諸運動の運動」「諸連合の連合」(*6)というものだ。
子細は割愛するが、労働組合が、自ら蓄積してきた運動資源(組合員の参加関与、組織運営ノウハウ、資金等)を割き、多様な運動体の「触媒」(活動への参加とその他支援により、取り組みの活性化に寄与すること)となること、またこの多様な運動体同士の「結節点」(同じ志をもつ運動主体の連携・連帯の機会を媒介し創造すること)となるような「機会」と「場」の創造が、社会改革を成す運動となり得ると考える。
端的に言えば、資本主義によって崩壊した人間の共同体という社会システムを、今日的に再生する端緒になると言えるかもしれない。具体的に、社会を善くするという活動における、人びとの協働と交流による実践行為が、所在なき不安を解消し、不満と苛立ちを期待と希望につなげる可能性を感じている。
労働組合が、今般の選挙結果の問題を、「SNSリテラシーの強化」程度の問題にしてやり過ごすことは、事の重大さから許されないのだと、私は考える。
<参考文献>
*1 「21世紀成熟社会の理論」研究プロジェクト第8回講演資料・「デモクラシーの行方~ポピュリズムの時代の政治変容―中抜きと分極化」水島治郎・千葉大学法経学部教授
*2 「ポピュリズムとは何かー民主主義の敵か、改革の希望か」水島治郎著、中公新書2410、2016年
*3 兵庫県知事選挙投票日翌日の内田樹氏の“X”(旧ツイッター)への投稿から引用
*4 「私の提言」-「連合運動の座標と運動論の検討」新妻健治、2021年
*5 「終わりなき日常を生きろ」宮台真司、筑摩書房、1998年
*6 新川敏光、「世界の労働運動―労働運動の歴史的意義と展望―格差社会からの脱出―国際経済労働研究所創立50周年式典シンポジウム連動」、2013年、国際経済労働研究所・機関紙「Int’lecowk」、Vol.67通巻1023号