週刊RO通信

与野党新関係をめざせ

NO.1590

 政局安定と政治安定はちがう。政局が安定して与党が暴走した結果、総選挙で少数与党になった。ハングパーラメントで政局不安定である。

 さて、問題はこの事態から各党が いかなる政治の形と質をめざすか。

 国民民主党がキャスティングボードを握ったとして、いわゆる103万円の壁突破問題が象徴的に報道される。首相指名選挙で国民民主が石破氏に協力する約束によって攻勢をかけた。機を見るに敏ではあるが、政治を政党間バーターの市場にしてしまうだけなら感心しない。

 仮にこのスタイルが定着すれば、与党が自公から自公国になっただけで、従来の与党政治パターンが変わらない。なんでもかんでも、与党が好き放題に決めるという悪弊を改めねばならない。

 戦後、民主主義政治の歴史が始まった時から、日本型政治の特徴の1つは、過半数を握った与党が、「多数の国民の支持をいただいたのだから自分たちの自由にやらしてもらいたい」という独善的な考え方に支配されている。

 政党は、一応組織された世論ではあるが、たとえば自民党の場合、ざっと100万人程度である。大政党といってもこんなものだ。国民1億2千万人の1割にも満たない。

 そもそも投票した有権者が多数としても、国民の圧倒的多数ではない。さらに与党に投票した人々にしても、全面的にお任せという能天気な人は多数派ではない。与党が多数を制したというのは錯覚にすぎない。

 先の総選挙では、自民党が人々の気持ちを逆なですれば、支持者だけではなく、党員であっても離れることが証明された。

 新しい政治状況において、一時しのぎに数合わせして、次の選挙で巻き返せばいいやなどと楽観するようであれば、次は疑いなくお陀仏である。いま国民民主が存在感を示しているが、それが政治問題の本質的解決でないことを忘れてはならない。

 国家、国民のために働くと政治家は大きな発言をする。本当だろうか! 国家・国民を唱えて、人々をひとまとめしても、それは言葉の上だけである。国家だろうが国民だろうが、決して一枚岩ではない。全体主義国ではない。

 二大政党論がしばしば顔を出すが、政治的問題を大きく二つに区分できるというほど国家・国民は単純ではない。

 国益という言葉にしても、わかったようでわからない。選挙演説などでは、論理的納得性が高まっているのではなく、その場限りの情動に右往左往しているだけである。だから選挙結果が政治の変革につながらない。

 政治家は、とにかく有権者と握手する雰囲気を作れば選挙に勝てると思いがちである。しかし、選挙に勝ったとしても政治の扉の前に立っただけである。選挙勝利至上主義の政権争奪戦は中身が空疎である。

 自民党政治にたいする不満と怒りが政治状況を少し変えた。政局不安定がそれである。しかし、そこで与野党取引合戦の巧拙を競い合うだけなら、依然として有権者の政治離れを食い止められない。

 要するに政治家が問われているのは、議会において、真摯にして切実な議論がおこなわれるかどうかにある。真摯、切実というのは人々の生活感覚にいかに接近できるか。空疎な政策論ではなく、いかに人々の論理的納得を前進させられるかということである。

 「賢明な政治家は、むしろ反対党を愛する」(ディズレーリ)という言葉を、さいきんほとんど聞かない。それこそが大事だ。つまり、野党の存在を認めない与党の政治姿勢が日本的民主政治の前進を阻んできた。

 議会政治の原理は、民意の代表と公開の二つが実践されるかどうかにかかっている。議会での議論が民意を代表するのは、審議が充実していて、人々が議論の動きに注目することである。だからすべて公開されねばならない。

 野党の存在理由は、大事な政治問題について明確な争点を提供することにある。政治的バーターを狙った動きばかりが報道されても、人々の政治的見識は高まらない。それは、つまるところ、巨大な官僚機構が野党の主張の意味を骨抜きしやすいからである。

 国会での議論が興味深いものになるかどうか。それを問いたい。