週刊RO通信

なんともならない、か!

NO.1589

 わたしの友人が、内外ともにこんな体たらくではなんともならない、お先真っ暗じゃないかと、うんざりしている。わかる。たしかに、いま、バラ色の未来を思い描く人は少ないだろう。

 ウクライナもガザもお手上げ状態だ。そこへトランプ登場というのだから、なにをやらかすかと心配になる。なにしろ、世界政治のプレイヤーはすでに出尽くした感、いずれがアヤメかカキツバタ状態で、このままでは建設的なサプライズを期待しようがない。出口なしだ。

 そうではあるが、現代は、なんとかなる時代だけの集積でできたのではない。なんともならない事態が少なからず積み重なってきたが、ここまで、なんとかやってきたと考えるべきだろう。

 とはいうものの、あまりにもうんざりすることばかりなので、思考停止すればラクだと思わなくもない。しかし、それをやってはおしまいだ。ここで尻尾をまくわけにはいかない。一寸の虫にも五分の魂という言葉もある。

 いまはけちょんけちょんに批判しているが、かつてアメリカは、同胞が血で血を洗う南北戦争(市民戦争)を克服してきた。克服していないのは、先住民を追っ払って自分たちの国を作ったという反省が構築できない。黒人差別も、ヒスパニックに対する差別も、元をただせば、白人主義たる傲慢の産物だということに思い至らない。

 それでも! 建国以来248年の歴史においては、いまがいちばん上等だろう。昔がよかったとか、昔に戻りたいというのは、過去に対する無定見のロマンティシズムであって、なかったものに憧れているだけだ。

 もっといえば、そのよかった過去の積み重ねが、こんにちの混乱を生み出したともいえる。だから、いまは声が小さいが、「アメリカの民主主義は、トランプの4年間を耐えられるほど強い!」と語る識者もいる。

 ところで、中国は独裁でけしからんという見方が一般的だ。実は、中国の人々は「独裁者」を安眠させず、楽観させない力を持つ。中国の人々は投げ網にかかる小魚ではない。彼らの自己意識は一筋縄ではいかないほど強い。彼らの反権力精神は軟弱でないのである。

 100年以上前、中国人は砂のごとくで固まらない、といわれた時代があったのは事実であるが、それこそ、彼らの反権力の自己意識であって、少々の甘言にお調子よく乗らなかった。ひとたび燃え上がれば革命を起こす。納得できるまで内戦もやった。

 その個人力を知っているから為政者は組織的一元化をめざして、あれやこれやの政策を繰り出すことに躍起である。そこで、上に政策あれば、下に対策あり。これが中国の人々のしたたかな自己意識である。

 というわけで、わたしは、アメリカや中国の人々と日本人を比較して、デモクラシー・パワーを考えると、彼らはよほどパワフルだと思っている。

 われわれのホームページにいつも示唆に富んだ寄稿をされる高井潔司さん(北海道大学名誉教授)が、このほど『民族自決と非戦 大正デモクラシー中国論の命運』(集広舎)を出版された。

 同書の柱の一つとして、大正デモクラシーを「内にデモクラシー、外に帝国主義」と規定してきた、戦後デモクラットのヤワな思想を書き直す意図があったと、わたしは思う。そもそも、内にデモクラシーというが、当時はそんなものはなかったのである。砂漠か、荒れ野かみたいなものだ。

 清水安三にしても、吉野作造、石橋湛山にしても、各地で発生した青年運動にしても、先達はデモクラシーの種を撒き、芽を育てた。しかし、圧倒的多数の人々は、れっきとしたアパシーであり、お上依存である。先達に植民地主義を阻止する十分な力がないのは不思議なことではない。

 日本は戦後デモクラシーになった。いま、われわれが、内のデモクラシーを思い、外のデモクラシーを考えるとき、なんともならないと音を上げるのは、軟弱である。猫に小判、日本人にデモクラシーと言われたくない。

 人々がデモクラシーを学び、デモクラットとして成長するからデモクラシーが育つ。そうでなければ、それこそ「なんともならない」。大正デモクラシーには、自前のデモクラシーがあったのだ。