論 考

拙著『民族自決と非戦 大正デモクラシー中国論の命運』に託すこと

筆者 高井潔司(たかい・きよし)

 このたび、『民族自決と非戦 大正デモクラシー中国論の命運』(集公舎)を刊行しました。本オンラインマガジンの主宰者、奥井礼喜さんのご協力で、ライフビジョン学会の常連の皆様には、読んで頂けるよう手配ができました。そこでPRを兼ねて本書の狙い、本書に託した気持ちを、ひと言付け加えたいと思います。

 というのも、本が完成してみると、結構な厚さ、立派な装丁で、友人の中には、これは学術研究書と敬遠する向きがあるからです。決してそのようなレベルではなく、戦前のちょっとイケてる中国論を書いた人々のヒューマンドキュメントです。

 本の帯に、「『侮蔑的対中姿勢』を捨て、真の相互理解・協調へ」とありますが、これは第一読者の編集者が作成したもので、執筆の結果としてそう読まれることに筆者として異論はなく、むしろ有難いと思っています。ただ、私自身、決して真の日中友好を目的として書いたわけではありません。

 この本の出発点は、私が再就職した桜美林大学の新任者研修会で配られた学園の創設者、清水安三の自伝的評論集『石ころの生涯』で、彼の中国論に出会ったことでした。当時(大正期)主流の中国停滞論、中国侮蔑論とは違って、彼の評論は中国の民族運動を支持し、日本の軍国主義を批判して、対等な両国関係を訴えていました。

 彼は北京に派遣されたキリスト教の宣教師で、一番驚くのは当時の中国の民族運動、革新運動の指導者たち、例えば共産党の創設メンバーの一人、李大釗や、中国近代文学の父、魯迅らに直接会って取材していたことです。

 しかも、私がかつて所属していた読売新聞に一年半の間に37本もの記事を載せていた。一体、どのようにしてそれが可能になったのか? それを探るうち、背景に大正デモクラシーをけん引した大阪朝日新聞の人脈が動いていることがわかりました。

 そして、清水の中国論が同時代の人々の中国論の中でどう位置付けられるか、調べるうち、「大正デモクラシー」の息吹を受けた中国研究、中国報道の潮流があることに気づきました。私はそれを『大正デモクラシー中国論』と名付けたわけです。「民族自決と非戦」の流れです。

 それは明治以来の、明治維新・文明開化の実現、日清・日露戦争の勝利の勢いを駆って、日本をアジアの盟主と自任し、中国や朝鮮、アジア諸国を指導し、その解放(その実、侵略)によって欧米の帝国主義に対抗するというアジア主義の潮流とは異なるものでした。むしろその潮流を批判する中で生まれたものだとわかりました。

 ただ、「大正デモクラシー中国論」は、満州事変をきっかけに、変節するもの、方向転換するもの、スパイとして検挙されるもの、影響力を削がれるものの抵抗を貫くもの、さまざまな運命をたどります。その命運をふり返る中で、現在および今後の中国論にとって、どのような教訓が得られるかを、考えたのが本書の主旨です。

 彼等の主張を原文にさかのぼって検証してみると、従来のマルクス主義歴史家の彼らに対する低い評価への疑問も芽生えました。そこで明治にまでさかのぼり、「大正デモクラシー中国論」をふり返る意義をあらためて考えました。

 「大正デモクラシー中国論」の研究者、報道機関はそれぞれつながり影響し合っていますが、本書ではそれぞれ独立した章を設けて議論していますので、最初から読まずに、興味を持った人物から読まれてもわかるようになっています。

 この本では、日中関係の現状に対する私の考えは述べていません。それは皆さんそれぞれの見方があるからで、それも今後の国際情勢によって変化していくことでしょう。この本が今後の日中関係について考えるヒントになれば幸いだと考えています。