筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
たぶん、1970年代に書かれたと思うが、スタッズ・ターケルの『仕事』(成文堂新光社)という本がある。いま手元にないので記憶に頼る。分厚くて5cmくらいはある。しかも、文字は小さい。ターケルさんが米国のさまざまな職種の労働者350人をインタビューした本である。
これが非常に面白い。卓抜しているのは、ほとんどの労働者が、質問されて応答しているのではなく、あたかもモノローグのように、まるでとどまるところがないような発言が続く。話したいことを引き出す、インタビュアーの優れた腕前である。政治家が聞きますというのとは全然違う。
少し注意して読むと、ほとんどすべてに、共通している労働者の気持ちがあるようだ。思い出すままに一例を上げよう。
ある鉄鋼労働者、50歳代だと記憶する。熱く焼けた鉄の塊を扱う仕事である。この道一筋の大ベテランで、自分の仕事には、絶対の自信と誇りをもっている。
しかし、彼は不満である。大不満である。「なぜ、俺の仕事の価値を認めないのか。こんな社会システムを作っている奴を見つけたらぶん殴ってやりたい」のである。残念ながら、彼は奴をぶん殴ることができない。社会システムという奴がどこにいるのかわからない!
同じ頃、日本の労働者は、仕事を通じて自己を成長させたい、自己実現したいと素晴らしい発言をする人が増えていた。実に対照的なのである。
GMの新車がラインから出てきたら、ボンネットに缶ビールの空き缶が乗っていた、などとまことしやかな話をよく聞かされたものだ。
ともかく、日本の労働者の仕事観と大きく異なるので、わたしは、いささか怪訝に思いつつ読んだ。とにかく、非常に面白い本であった。
『仕事』に登場した労働者の半分程度はすでに存命ではなかろう。ところで、その後彼らの仕事観がガラっと変わったであろうか。大統領選挙に関連して新聞に登場する労働者の声を注意して読んだが、おそらく、さらに事態は悪化しており、労働者の不満は高まる一方のようである。
そこへ登場するのがマジシャン・トランプである。彼は、素朴な労働者の心情に働きかけて、不満をジャンジャン吐き出させる。不満の対象、すなわちぶん殴ってやりたい対象は、バイデンやハリスだと指弾するわけだ。
このテクニックたるやきわめて単純、ヒトラーやムッソリーニからプーチン、ネタニヤフへと脈々続く扇動者の水脈である。これ、伝統的「扇動の技術」であるが、その特徴は決して複雑でも怪奇でもない。まことに単純である。実際、扇動の技術は種明かしすれば、なあんだ、という程度のものだ。
手品は大成功だった。トランプは労働者にとって、自分の投影であり、自分の不満を引っ提げて挑戦してくれる快男児なのである。本当にそうなのかは、どうでもいい。彼らはそのように思い込んだ。トランプやマスクが、労働者の仲間である。わたしは、まさかと思うが。
さて、ここまでは手品である。首尾よく大統領の座を射止めたものの、社会のシステムは手品では変えられない。
奇妙にも、ほら吹きトランプは謙虚である。社会システムを変えるならば、「新しい資本主義」をぶち上げねばならない。日本の岸田はぬけぬけと中身カラッポの「新しい資本主義」を掲げたが、トランプは、そんなことを押し出せば、利口な労働者に直ちに見抜かれることを知っている。
トランプは、さすがに希代のアジテーターである。わたしは、それなりに大きな関心をもって手品の推移を注目する。