NO.1564
語るに落ちる岸田政治は遠からず総選挙の審判を受ける。その結果が喜ばしいかそうでないかは個人的趣味の領域である。さいきんはやたら口上手が多い。「あなたの一票で歴史を切り開いてください」などと語られると、わたしはじりじりしてくる。
日々の生活はやはり退屈そのものである。世界中で戦火が燃え上がり、次から次へ絶え間なく耳を疑うような事件・事故が発生しても、日常は退屈だ。日々の暮らしを耐え忍ぶことは、十分に骨が折れる。だからか、寝るより楽はなかりけり、浮世のバカが起きて働くという俗諺は脈々と生きている。
1960年代の世相は、なにかが充満している雰囲気があった。火を近づけると燃え上がるような切羽詰まった感じもあった。若者はなにかを探して、焦っていたが、たしかな手応えがない。大人たちは若者には未来があると語る。ただし、その未来が自分であるとはいわない。なにかわからないもの、それが未来である。わからないものを掴むためにはいかにすべきか。誰も教えてはくれない。見方によれば、充満しているものの実体は空虚だった。
1980年代のバブル当時に、充満していたのも空虚であった。60年代と異なるのは、人々が多少の小金持ち気分であった。嬉しいことに自腹で海外へ出かける人が増えた。当時の成金国からの旅行者らしく、パリのブランドショップは日本人が殺到した。
明治から、欧米を目標として追いつき追い越せでやってきたが、ようやく実現したらしい。ただし、それはゴールではない。人間社会にゴールはない。いつも自転車のペダルを踏んでいなければ前進しないだけではなく、転んでしまう。単純な理屈である。社会=自転車とは、それ自身では転ぶ車だと認識していた人は少なかった。
なにかがおかしい、いままでと社会の雰囲気が変わっていることに気づいた人も少なくなかった。成田へ降りてしばらくすると違和感がある。雰囲気が緩んでいると感想を語る人が多かった。海外へなにかを見つけに出かけたおかげで見つけたものなのだが、それを認識化しないままに時間が過ぎた。
60年代は空虚のなかでなにかを探そうとしていたが、80年代は空虚のまま出かけてそのまま帰ってきた。探そうとする意識があっただろうか。
73年に井上陽水が『夢の中へ』を発表した。振り返ると、これはまさしく時代の雰囲気の本質をついていた。しかし以後、人々は探し物することから離れたようである。82年には西武百貨店が糸井重里のコピー『おいしい生活』を発表した。泥臭く押し付けがましい「生きがい」説ではなく、やわらかいが非常に深い意味のあるコピーとして表現した。
『夢の中へ』も『おいしい生活』も、自転車のペダルを踏む前提としての人生を問うていた。これが、80年代のバブルの波間に浮き沈みして、90年代になると吹っ飛んだバブルの尻拭いとしての失業時代がつくりだされ、以来の日本産業界は超円安でようやく輸出競争力を維持するような体質に停滞している。こんなはずではなかったのに!
「われわれが過去を振り返るとき最初に目にするのは廃墟である」(ヘーゲル 1770~1831)。この言葉はわたしたちが拳々服膺するにふさわしい。日本が失ったのは30年どころではなく、ざっと50年に及ぶ。性根があったのは敗戦後の20年間くらいでしかない。
たまたまの一致か、明治維新も斬新な気風を持ちこたえたのはざっと20年ほどであった。その後は次第に国家権力を担う連中の暴走が強くなり、維新から77年後には、多くの都市が廃墟としての憂き目をみた。いまが廃墟だといえば、冗談じゃないという声が出るだろうか。戦後ほとんど政権を担った自民党の姿は廃墟にあらずや。精神的にはまったく空疎である。
どなたさまも自分が主たる関心を持続している世界において、これはなんとかしなきゃいかんという気持ちを抱えておられるだろう。戦争のようなカオスにあっても、日常生活は最大の関心である。だから日常生活第一で暮らすことは大きな仕事であるが、それだけではなにかが足りない。
オルテガ(1883~1955)は、「過去はわれわれにとって誤謬の宝庫として現れる」と書いた。さて、廃墟を宝庫に転換できるかどうか。