大正デモクラシーの表情
大正デモクラシーといわれる時期は、おおむね第一次世界大戦終了後(1918)から大正年間である。
1950年代には、「明治の人は偉かった。昭和の人は大きな戦争を戦った。大正時代はたいしたことがなかった」という話をしばしば耳にした。子どもの筆者は、なにも勉強してないから、意味はさっぱりわからなかった。銭湯談義・居酒屋談義の類であるが、バカにはできない。世間の雰囲気があった。
大正時代は1912年から1925年である。時代を担ったのは大方明治時代に生まれた人である。
明治の気風をみれば、忠君愛国である。君に忠・親に孝である。誰もが自分の生まれた家を大事にする。それが天皇を頂点とする日本一家である。職場は経営者を頂点とする家族である。経営者は親であり、従業員は子どもである。子どもが親にお小遣いほしいというのは不孝者である。黙々と孝養を尽くせば、可愛がってもらえるし、お小遣いもいただける。
このような精神状態にある人々が、1918年コメ騒動という大事件を起こした。いわば明治的精神を全面的に否定しているのと等しい。見落とせないのは、彼らが明治的精神に忠実に生きてきたにもかかわらず、結果として、それに反旗を翻したことである。
もちろん、一挙に人々の精神状態がデモクラシーに転進しない。大正デモクラシー時代は、明治的精神とデモクラシー精神が衝突した。これは決して簡単なことではない。欧州では、13世紀後半からルネサンスが始まり、宗教改革を経て、1789年フランス革命まで、およそ500年をかけて、デモクラシーの核心たる個人主義を形成した。日本では、明治からデモクラシーの理論が起こったとしても、大正末年まで60年にしかならない。
欧州では、「すべて神の言葉に従え」としていたものを500年かけて、「自分の頭で考える」ようにした。無宗教の日本では、明治以来、神人一体の国家宗教を押し付けられた。それと、個人的精神との衝突である。自分の考えを形成するには、よほどしっかりした根性と思考が必要である。
夏目漱石と石橋湛山
1914年、夏目漱石(1867~1916)が学習院で、「私の個人主義」と題して講演した。大事なことは、まず自分がいかなる人生を送りたいのか考えよ。個人が第一である。国を愛する前に自分を愛せよ。さらに、意見の相違は親しい間柄でもどうすることもできない。だから他の存在を尊敬すると同時に、自分の存在を尊敬しようと主張した。デモクラシーの基本である。
馬場胡蝶(1869~1940)が知識人多数の応援をうけて、1915年の総選挙に立候補した。選挙資金を稼ぐために制作した1127頁の『馬場胡蝶勝弥氏立候補講演現代文庫』の巻頭を飾ったのが「私の個人主義」である。本の制作はわずか1か月、漱石門下生、『青鞜』同人、正宗白鳥、田山花袋、与謝野鉄幹・晶子、北原白秋、堺利彦ら当代人気作家が筆を揮った。
100余年後のいまから考えれば、「私の個人主義」なんて常識だということになるだろうか? 忠君愛国、臣民であって、個人がない時代の話である。語り口はやさしいが、内容は「コペルニクス的転回」である。まして現在の個人主義なるものが、ほとんどアパシーだと考えれば、聴衆はなんの話かよくわからなかったのではあるまいか。
石橋湛山(1884~1973)は、大正時代に入った時28歳である。東洋経済新報の記者として時代の最先端をいく記事を次々に書いた。普通選挙権がまだない。直接国税10円以上収める男子にしか選挙権がない。議員定数は379人、うち中都市部議員は76人であった。
湛山の筆論は、市民的自由・個人主義の鼓吹にあった。いわく、忠君愛国は人の自主性を奪うのみか、奴隷根性を増長させる。これは、ニーチェ(1844~1900)が、キリスト教を奴隷の宗教だと罵倒したのと共通する。武士道が「労働の神聖」を教えないことも批判した。
1912年に鈴木文治(1885~1946)が創立した労働者の友愛会の柱は「労働の神聖」を掲げている。その淵源は、1897年に日本で初めての組合、労働組合期成会が掲げた。有閑階級である武士は働かない。武士がパラサイトしているにも関わらず士農工商の頂点に立っていた。そのような武士道が根本的に労働の神聖を語る資格を持つわけがない。
湛山は、「君に忠・親に孝」の家父長主義にも異論を唱えた。家族は、夫婦を基盤とせよ。これまた、当時としては極めて先進的なオピニオンである。さらに、健全な思想は絶大の自由を与えるにあると主張した。この自由は放恣をいうのではない。ルネサンスの人間解放を意味していただろう。極めつけが「いかなる国家であっても、最高支配権は人民にある」という主張である。
漱石は種を撒いた。湛山が育てようとしたデモクラシーの精神は、いま辿っても素晴らしい。もちろん、全国各地でデモクラシーに共感・共鳴する人々の学習会や、先進的教師による自由教育の試みがあった。
暗転
大正デモクラシーのピークは、1921年ごろである。軍国主義が退潮化した。世界的には、ワシントン軍縮会議があり、軍拡競争にいったん歯止めをかけたかに見えた。
1922年1月2日、大阪朝日新聞は、「徹底した国内のデモクラシーは国外ではすなわち民族自決と平和主義になる」と社説に書いた。当時のデモクラットの多くは、国内では民主主義、外に対しては帝国主義の考えの人が多かった。民主主義が内外を貫くもので、したがって平和主義になるという考え方は開明的で立派なものである。
しかし、1923年9月1日、関東大震災が発生した。これは自然災害であるが、震災の混乱において、朝鮮人虐殺事件、亀戸事件、大杉栄・伊藤野江らの虐殺などが発生、一挙に軍国主義へ戻ってしまった。デモクラシーがまだまだ地面にしっかり足をつけていなかった。
長谷川如是閑(1875~1969)は、「大正デモクラシーは女の厚化粧」であった、と自嘲的な言葉を残した。如是閑も大正デモクラシーの旗手の1人である。悔しかったであろう。
そして、時代が動くことがいかに大変であるか。表面的な騒動だけでは人の心は変わらない。(陳腐ではあるが)着実に学んで前進するしか人間社会の進歩はないことを肝に銘じたい。まさに、民主主義になって78年目の忸怩たる思いだ。
奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家 OnLineJournalライフビジョン発行人