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解散したいほど成功だった?

奧井 禮喜
選挙こそが仕事だと考える悪弊

 自民党内では、G7サミットは成功したから、次は衆議院解散だと大声疾呼している。社会通念では、苦心惨憺してせっかく議席を獲得したのだから、任期4年いっぱい、政治的見識をおおいに発揮したいだろうと思うが、そうではない。

 解散が多いほど、当選回数がキラ星のごとくに増える。大臣への階段を駆け上るには1に解散、2に解散――解散待望論こそが自民党政治家の政治人生である。選挙を嫌うようでは、大政治家になる資格がないようだ。

 もちろん選挙が強くなければならぬのは当然だし、政界は生き馬の目を抜く人物の大行進だから、金帰月来、田の草取り・水やりをおさおさ怠ってはならず。もって政治家は常在戦場という心構えができた。

 そこで本末転倒が発生する。政治をおこなうために勉強して見識を磨くこと、あえていえば蛍光窓雪の精神こそが大事だ。しかし、現実は選挙の勝者になることが目的化する。なにがなんでも選挙第一、選挙の合間に政治をするという異形が確立定着した。失礼ながら、選挙で当選することに狂奔するほど、政治家としての知性は向上しない。箔は付くが、案外簡単に箔は落ちる。

 さりとて、当選回数が多くても大臣・党の要人ポストに容易に手が届くものでもない。実力者(だいたいは古参)の覚えめでたくなる必要がある。勉強して政策通(社会通念的な)になれば必然的に主要ポストが回ってくると思うのは、間違いなく素人政治家される。気配り・目配り・小回りに卓抜せにゃならぬ。

 政策通なら官僚がわんさか集まっている。官僚が官僚である限り政治家の上に立つことはできない。政策通として、政治家から便利にこき使われるだけだ。だから、官僚も非政策通の政治家に使われことに物足りない場合、政治家への転身をめざす。

 政策通になることと、主要ポストを手に入れることはまったく別ごとである。つまり、主要ポストを手に入れたいなら、それ自体を目標として行動するほうが合理的である。

 かくして選挙第一・政治第二、当選すれば猟官第一・政策第二。いわゆる人事出世競争という骨太! の自民党的永田町「芋の蔓システム」が敗戦後一貫して日本政治を形成してきた。

縦に従う・横に群れる――これが日本的ポピュリズムの本質、核心である。政策を競えというが、わが政治には「What」「Why」の2つがおおむね欠落している。だから、政策といっても小手先ちょろちょろ、政治家は税金のディーラーよろしく、仕事している感の演出に熱心である。これが、コピー政治であり、場当たり・日和見主義になる所以だ。

どんな成果があったのか?

 遠からぬ以前、G7サミットが無事に終われば、岸田サミット花道論がまことしやかに語られた。ただいまは、そんな話がありましたかという調子だ。なるほど、これが解散風のご本体、空気であろう。

 そこで成果とはなにか? 少し考える。G7に首脳が集まることは格別困難な事情でない。集まることに意義があるというような古い感覚は捨てねばならない。なんのために集まり、いかなる会議の「成果」が叩き出されたか。

 言いたかないが、言うしかない。言っておきたい。

 G7首脳らが揃って広島平和記念資料館を訪れた。慰霊碑に献花し、黙祷。最後は記念(祈念?)植樹をした。人の頭の中は覗けない。首脳方々がなにを考えたのか、不明。

 マクロン氏は、「広島の犠牲者を記憶する義務を果たし、平和に向けて行動することが私たちの責務だ」と記帳したが、まさしく「お言葉レベル」であって、中身はどうでも受け止められる。

 典型的な庶民感覚はこんなところだろう。――こんかい、G7首脳らが広島平和記念資料館を訪れたことはある程度評価したい。世界の紛争地で核兵器が使われたら、どんな悲劇が起こるか、リアルに想像できたと信じたい。訪問を契機として、核兵器廃絶への道が画期的に開けることを祈っている。――

 果たして「リアルに想像できた」だろうか? そして、「画期的に開ける」だろうか? 直ちに反応がないことをもって批判するのではないが、画期的に開けるなんてことが期待できるわけがない。

 期待できないにもかかわらず、いや、だから「祈っている」わけだ。誰に祈るのか? ローマ法王さまの袖におすがりするか。信仰していない人が、密教よろしく祈ったところでご利益はなかろう。活劇映画を見て、帰途に就く人の肩が怒っていることは多い。ま、そんな程度であっても、大根役者ばかりの会議を見て、一筋の光明を感じた人がおられようか。

 首脳らが、核兵器が使われたことを「リアルに想像した」だろうか? 岸田氏がしばしば「広島ほど平和へのコミットメントを示すのにふさわしい場所はない」と語った。それが本音だとして受け止めれば、ふさわしい場所とは「墓場」である。軍事力による平和とは墓場の平和である。

 こんなことは、古今東西普通の(正常な)人は誰でも知っている。しかし、日本が核兵器禁止条約に加盟せず、アメリカの核兵器先制不使用宣言に反対するのも、なんともはや、日本である。

 いまからすればかなり陳腐な武器しかなかった時代においても、正常な人は、武器がもたらすのは墓場の平和だと考えた。核兵器使用されるのは、第三次世界大戦だし、その帰結は地球が吹っ飛ぶだけのこと! だ。

 首脳らが直ちに行動した(させられた)のは植樹。記念館訪問を記念して植樹したのだが、これが彼らの想像力の最初の発現である。答案を綴る鉛筆をつくるためにまず植樹したと例えるべきか。なにも変わらなかった。

 首脳らの想像力を、リアルに表現すれば――イベントは盛大に開催された。Their head is empty.

 目下最大の危険要因はプーチンのロシアである。そこで、グローバルサウスを西側に取り込もう。そのためにG7は一致結束箱弁当で行こう。なんのことはない、自民党の派閥戦略そのままである。

 しかし、ロシア・中国側対G7西側の関係に世界が収斂されるならば、グローバルサウスがどっちへ付こうとも、第三次世界大戦の危機はますます高まる。こんなとぼけた結論を、お歴々が大枚・膨大な時間・巨大な手間を結集してつくった(?)G7サミットが成功したと言えるのだろうか?

G7は「終わった」

 G7各国の世界GDPに対するGDP比率が下がった。だからG7の影響力が落ちたという。そうかもしれないが、それは「力=軍事力+経済力」を絶対とした世界秩序の終焉を意味している。力とカネがあればなんでもできるという傲慢無礼な先進国、野蛮人に戻りつつある先進国的知性なるものの終焉を意味する。

 知的で率直な説明もできない(しない)岸田氏だから、イベントを消化すれば成功なのだろう。しかし、どう眺めても、世界を断崖絶壁から少しでも引き戻したようには見えない。いや、むしろ危険を深化させた。言葉の力より軍事力に全面的依存する頭脳をリアリズムとはいわない。そもそも言葉を大切にする政治家ではないらしい。

 核兵器の使用も威嚇もいけない。あまりにも被害が大きく、非人道的であるからだという。まったくその通りである。

 さらにいえば、すべての武器は被害の範囲が直接的で限定されるとしても、だかといって人道的という評価はできない。村田銃で殺されたが核兵器より人道的な死であったというだろうか。

 つまり核兵器非人道的論は、力の均衡を否定する論理と等しい。

 広島にG7の首脳が集まったが、核兵器廃絶に向けての出発点にせよという声には(賛成だが)、期待はできない。やる気がまったく見えない。

 G7自体が力の均衡論を床の間の掛軸として思考し行動しているのだから、核兵器だけが別格だという論拠に立てないだろう。

 そもそも戦争なるもの、正気の人間がやることではない。論理はそうなのだ。現実は世界のリーダーたる立場の人々が、得々として力を誇示する。メディアも当然のように報道する。

 正気でない世界の真っただ中で、個人が自分の正気を維持するのはなかなか容易ではない。しかし、当てにならないイベントでの他人に期待するよりも、自分が正気を貫く決意を再確認するのが大事だ。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人