週刊RO通信

広島という都市の宿命?

NO.1512

 わたしは広島県と背中合わせの島根県生まれ。両親がトラック運送で、生活の糧を得ていた。たまたま広島へ生鮎を運送する仕事が入り、5歳のわたしも載せて広島へ旅した。これが最初の旅行体験でもある。

 1日休養という計画だったらしい。母親に手を引かれて市内を見物した。こんにちの発展からすればバラックも相当あったはずだが、幼稚だから、すぐ目に入る光景のみで、もちろん都市全体を想像する力がない。

 平和記念公園は1950年着工であり、まだ形は存在しない。原爆ドームを見た。市内を歩いていると、被爆された方が非常に多かった。『原爆の子』という映画を見た。記憶しているのは、怖くて体が震え、涙が出たことだ。

 母親は独身時代に原爆ドーム近くの歯医者で働いていたそうで、広島に対する愛着が深かっただろう。自分が青春期を過ごした思いもあり、わかっても、わからなくても、わたしに広島のありのままを見せたかったようだ。街を歩くときも映画館でも、わたしは母親の手を握り続けた。

 さて、広島は明治時代から軍都であった。日清戦争で広島が注目を集めた。直接の開戦理由は朝鮮の内政改革というわかりにくいものであった。

 勝海舟は「無名の師」であると論じた。なによりも明治天皇自身が開戦に当たって消極的であった。首相・伊藤博文も「知らずしらず大洋に乗り出した」と嘆いた。尾崎行雄は、挙国一致は「雷同不和」の結果であると断じた。

 はじめ日清戦争に対する国民の関心は挙って高いとはいえなかったが、1895年9月15日、大本営が広島に設置されて雰囲気が大きく変わった。伊藤が大本営を広島に進出させた理由は、戦争が天皇の直接的リーダーシップによっていることを示して、民衆の意識を喚起するものであった。

 天皇自身の消極性も反転、新聞は感激をもって民衆を戦争に統合する扇動を展開した。天皇制イデオロギーの民衆への浸透、天皇と軍人の一体感の強調、国軍としてではなく、天皇の軍隊としての皇軍意識が形成された。

 日清戦争で勝利した日本は、列強に「圧迫される国」から、列強並みに、他国を「圧迫する国」へと転換した。明治維新から27年しか経ていない。力こそ正義とする列強の教育と、封建武士道が結託した。広島は近代日本軍国主義の中心都市となった。

 日清戦争開始から50年、1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。その後広島は平和都市として「平和への誓い」を発信し続けてきた。大量無差別殺傷兵器の被災都市として核廃絶を求めるのは当たり前であるが、日本が始めた戦争の帰結であるという歴史は否定できない。

 広島はかつての「圧迫する国」の戦争の基地から、世界平和を訴える「平和の都市」に変わった。これはおおいに歓迎するべきことである。

 しかし、日本(人)は満州事変から15年にわたった戦争を、日本(人)として総括なし得ぬままこんにちに至った。そもそもの足元が定まらない。

 それがないために、戦争から遠のくにつれて、原爆投下が太平洋戦争の結果だという認識がきちんと育たなかった。1970年代に、中学生の7割が日本は太平洋戦争の被害者だと思っていたという意識調査がある。

 平和への希求を前面に出した教育であったこと、複雑な戦争の委細を中学生が容易に理解できなかったこと、教科の進捗がそこまで行かなかったこともあろう。いずれにせよ、なぜ、どういう経緯において原爆が投下されたのかという教育が十分ではなかった。

 戦争はいけない。当然である。それを始めたのが日本だという視点が押し出されていないと、戦争はいけないという一般論に隠されて、原爆との関連もあいまいになる。戦争責任から遁走した政治家らの思惑が成功した。

 しかも敗戦・降参ではなく、「終戦」という中身のない言葉で表現した。太平洋戦争と原子爆弾の関係にさらに煙幕が張られたようなものだ。それでも事実は事実として残る。しかし、起承転結、原因・過程・結果が一連のものとして取り扱われないのでは歴史の考え方にならない。

 日本(人)による被爆者差別が原水爆禁止運動では語られないが、この問題は日本人自身が精神的残虐性として、永久に対峙せねばならない。広島という都市の複雑な宿命を感じずにはいられない。