週刊RO通信

力の根源をいつも忘れず

NO.1502

 2023春闘(大手組合)は、ひさびさの賃上げらしい数字で、組合リーダーのみなさんは一仕事こなした安堵感と達成感があろう。中小組合はこれからだが、前半ほどの雰囲気はできていない。企業の経営事情が思わしくないから、大手組合同様の取り組みでは大きな期待はできない。

 賃上げで消費・経済活性化をという声が、組合だけではなく政財界に広がったのが今春闘の特徴である。4%程度の賃上げは目下の物価高に早々吸収される。消費活性化に回るおカネは期待できない。大企業は潤沢な内部留保をもつ。積極的投資をする才覚がないのが経済不振の原因だ。

 賃金は、労働力の再生産費である。働く人は自分の労働力と引き換えに賃金を得るが、それは自分と家族の生活を維持するために不十分ではやっていけない。だから働く人は、生活に必要とする賃金を要求する。経済活性化のために賃金があるわけではない。賃金は働く人の生活費である。

 賃金は、企業で生産するために働く人の生活を維持するものであって、経済の好不況によって左右されたのではたまらない。政府は賃上げの音頭取りで仕事したような気分、便乗して財界人も右に同じだろうか。まさか各企業経営者も同じ感覚ではあるまい。

 賃上げが経済活性化のためだとトンチンカンな見識を披瀝している政治家の本音は、人々の人気取りにすぎない。さらにもっとも気がかりは、春闘主人公の組合員である。賃金交渉では組合力が問われる。もちろん執行部の交渉力が大事だが、それも含めて組合力とは、組合員力の総和である。

 今春闘では組合員の、賃金と交渉に対する理解と共感が高まっただろうか。この状態こそが組合員力であり、組合力である。もし、組合員力の中身にさしたる変化がなく、比較的高い賃上げができたとすれば、当然ながら、その原因は組合員以外のところにある。現実をよく見ておきたい。

 理由はどうでもよろしい、賃上げが高ければよいと考えるほど高い賃上げでもない。誰が決めたのか。政府与党は自分たちの手柄話にしたいだろう。手柄話にするのは勝手である。ところで組合としては、――本当にそれでよいのか――という疑問である。

 賃金は労働力の売り手である労働者と、労働力の買い手である経営側とが市民社会における対等原則で虚心坦懐に交渉し、両者納得ずくの合意を得る仕組みである。だから賃金決定の主人公は労働者である。経営側は副主人公である。とすれば、労働者が主人公でない賃上げとはなんだろうか?

 まことに好人物の労働者は、経営者が賃金を上げてくださったと喜ぶかもしれない。ならば、上げてくださったのであって、売り手と買い手が交渉して決定したのではない。そういう気風であれば、すでに労使関係は市民社会の労使対等ではなく、封建時代の温情主義に逆流している。

 もっとも進んだ賃金交渉の理論は、企業にとっては大きなコストである賃金を、労働者(代表)が参加して決定するのだから、その部分は労働者の経営参加が実現しているという見方である。かつて資本家・経営者が徹底的に組合を嫌ったのは、経営にくちばしを挟まれたくなかったからである。

 連合は、本当に組合力の賜物としての賃上げ達成なのかどうか。油断せず事実をしっかり見つめたい。執行部の努力はもちろん多とするが、自分たちの交渉力で、組合員のために賃上げしてあげたと考えるべきではない。交渉力は組合員力がアルファーであり、オメガであるのだから。

 交渉力に自己陶酔する調子だと、海千山千の自民党的手練手管でカモにされる。自民党の連合接近は、本当に働く人のための国つくりをしようと「改心」したからであろうか。労働力の売り手が売り手として結束しないように、骨抜きにする戦略ではないのか。経済活性化という「大義名分」のもとに、組合活動を実質的に解体する深謀遠慮がありはしないか。油断大敵だ。

 外から見ていると、今春闘もまた一貫して――主人公不在――であると言わざるを得ない。賃上げが当初予想以上に上がっただけに、組合員がますます主人公たることを忘れ、組合機関要員が客観的には張り子の虎だということを忘れる事態が深化すれば、組合力の後退がさらに進む。ロートルの嫌味に聞こえるのは承知のうえで、あえて一文を呈する。