週刊RO通信

政治家は、道案内が務まるか?

NO.1500

 朝日新聞解説風記事(3/5)によると、自民党内部には、「安全保障をオープンに議論する国などない」という見解があるそうだ。有識者会議についても、参考にするが従うわけではないという。もちろん、有識者会議には自民党人士とは別の面から、筆者は問題意識をもつが、ここでは触れない。

 安全保障は、複雑であり、微妙であり、非常に重大問題であるから、オープンな議論はできないし、するべきでないという理屈だろう。ひごろ得体のしれない安全保障問題の情報などパスしている人からすれば、お説ごもっともで、こんな記述は見過ごすかもしれないが、そうはいかない。

 第一に一般論的だが、国政における問題は、いずれ劣らず重大であって、軽重に甲乙つけがたい。そもそも、重大な問題であるから、国会という舞台で、有権者に選ばれた議員諸氏が論議する。多忙な国会である。重大でない問題などに関わっている暇はなかろう。

 第二に重大な問題であるから専門的・職業的政治家に任せなさいというのであれば、国会で論議する問題はすべて議員にお任せで、有象無象が聞き耳を立て、脇からあれこれ口出しするなという理屈になる。重大な問題ほど公開性を高めるのが話の筋道である。それが民主主義だ。

 第三に安全保障問題について、一般の人々はまったくの素人であって、論議に参加する資格がないと言いたいのかもしれない。なるほど、下手の考え休むに似たりという。そこで、単純至極な疑問だが、政治家諸氏が有する安全保障の専門性の中身がわからない。要するに信用できない。

 かつて、安全保障をオープンに議論しなかった結果が、わが国と諸外国の人々にいかなる苦悩、困難、被害を与えたか。職業政治家ともなれば、自分が生まれていなかったにせよ、わが国の近代以来の歴史や、民主政治の在り方について研鑽を深めているはずではないのだろうか。

 カー(1892~1982)『危機の二十年』の内容の一部を引用してみる。(筆者流に要約した部分もある)

 欧米先進国において、1914年までは国際関係を扱う仕事は、職業としてこれに携わる人たちだけの関心であった。つまり、第一次世界大戦勃発までは、人々の国際関係に寄せる関心が高くはなかった。多くの識者が、すぐ治まると予想した戦線・戦火は拡大に拡大を続けた。

 誰かが始めた戦争に諸国が参加して、進むも引くも動きが取れない。戦争を始めるのは簡単だが、容易に止められないという事態が、人々を巻き込んだ。それまでのいわば牧歌的戦争観が吹っ飛んだ。総力戦である。戦闘員と非戦闘員、軍事と非軍事の区別なく、爆弾、銃弾が飛んで来る。

 当時はいずれの国でも対外政策は伝統的に政党政治の管轄外であった。戦争は軍人の仕事であるとみなされていた。専門家がなにをしても人々は注意を払わなかったわけだ。賢明な人々は、これではいかん。軍人と外交官に任せておいたのではいかんと気づき、反省した。

 そこで最初に起こったのが秘密条約反対運動である。秘密条約の最大特徴は、看板と中身が違っている。人々は体よく欺かれていた。その苦い経験から、国際政治学が誕生した。ただし、国際政治学の専門家にお任せするのであれば、問題を知る人が少し増えただけである。

 研究学徒のみならず、気づいた多くの人々が、国際政治に関心をもち、考え、周辺に発信するようになった。これ、まさに学習効果である。自分の頭で考えて、他者と意見交換する。カーは、考える人々はみんな政治家である。思考すること自体が政治行動の1つであると記した。

 最後に、1940年2月2日、日中戦争泥沼、翌年末には大東亜戦争に突っ込んだ時期の、兵庫5区(当時)斎藤隆夫(1870~1949)の、いわゆる反軍演説の一部を引用する。――ただいたずらに、聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界平和、このごとき雲をつかむような文字を並べ立てて(中略)国家百年の大計を誤るようなことがありましたら、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない。――

 わが職業政治家諸氏に、このような見識と緊張感がほしい。