月刊ライフビジョン | 論 壇

戦争か平和か

奥井 禮喜

戦争大好き人間は少ないはず

 語り部の方々が非常に尽力されて、戦争したらいかん、平和ほど尊いものはないことを後世に伝えておられる。しかし、戦争の悲惨さをどれほど巧みに話したとしても、平和構築をめざす気風の社会を作ることに結び付かない。

 また、戦争の惨禍を忘れぬようにと、さまざまメモリアルが残されているが、それ自体が主体的に動くわけではない。語り部の話も、メモリアルも、1人ひとりの反戦・平和主義の思想化や肉体化に直結しない。

 どうすれば、戦争の愚を冒さなくてすむのだろうか。

 常識的には、戦争大好き人間は皆無ではなくても多くはないはずである。しかし、筆者がもの心ついてこんにちまで、世界から戦火が消えたことはなかった。いまの情勢は、核兵器を使うのではないか、第三次世界大戦が始まるのではないか――と物騒極まりない。

 しかし、戦争は天変地異ではないし、人間同士の仕業であるから、理屈上戦争をしないための工夫はできる。人間世界は戦争を運命づけられてはいない。

戦争するのは権力=国家

 ホッブス(1588~1679)は、「自然状態において、人間は万人の万人による闘いの状態にあるが、人々が相互の契約によって主権者としての国家を作り、万人がこれに従うことによって平和が確立される」と主張した。

 人間には、物欲、支配欲、名誉欲、嫉妬、怒りなど厄介な性根がある。他人がもっているものは自分もほしい。奪ってでもほしい。自分のものは自分のもの・他人のものも自分のもの――みたいな、ケジメがつかない面がある。だから万人の万人による闘いの状態という考え方は理解できないことではない。

 そこで、人々が絶対的権力の命令に従って暮らすならば万人相互の闘いは起こらず平和であるはずだ――という考え方も理解できる。ところが、なんのことはない、戦争を起こすのは、人々が服従している権力=国家である。個人としてはかっぱらいも強盗も無頼漢もいて、他人との間に騒動を起こすが、それらが集積して戦争になるのではない。

 戦争を引き起こすのは、独裁者だろうが、集団だろうが、いずれも国家権力を握っている連中の仕業である。つまり、国家を作って平和が確立されるはずであったが、実は、その国家が戦争の主体者であり、平和を希求する人々の願いと反する事態を引き起こしている。

 困ったことに、戦争を引き起こすのは権力者だが、戦争をするのは一般の人々である。権力者の不始末の後始末をさせられるのは非権力者である。

 プーチンが、偉大なロシア復活の夢を抱く。果たしてかつて偉大なロシアが存在していたかどうか。傍目には怪しいものだが、本人が夢を描くのは自由である。とっくにボーイではないが、「ボーイズ ビー アンビシャス」は、高齢者になっても結構な心がけであろうから。

 しかし、偉大なロシアをつくるためにと称して、ウクライナをミサイルや戦車で襲い、自国領土・属国にするという野望は、強盗の理屈と変わらない。たまさか領土を奪取しても、ウクライナの人心を獲得することはできない。この程度の理屈が理解できないのが権力者なのかもしれないが。

 いずれにせよ、ロシア大統領がプーチンでなければウクライナ戦争は始められなかったであろう。

 彼は当初、ウクライナの人々が花束をもって出迎えてくれると考えていたらしい。恐喝の対象はウクライナ政府であって、政変だらけ、汚職だらけの政府が転覆すれば、人々は歓迎こそすれ武器をもって抵抗するとは考えなかった。

 ところが、まさかの大反撃。恐喝で一件落着の目論見が外れて、早くも戦争開始以来1年に及ぶ。しかも泥沼化、まるで終戦の兆しが見えない。

 ここではウクライナ戦争の帰趨を論じない。戦争がなぜ始まったかを考える。プーチンは、NATOの東方拡大でロシアの安全が危機に瀕したというが、NATOの動きを食い止めるどころか、藪蛇状態である。彼は世界戦争の前哨戦としてウクライナを攻撃したのではない。大ロシアの夢のためだった。

 しかし、ロシアが降参することはないにしても、夢は散々に飛び散った。ロシア内で、プーチンと同じ夢に酔っている人が多いのだろうか。プーチンが自分の夢のために戦争を始めた。彼が独裁者、最高権力者の地位を掌握していなければ戦争を始めることはできなかっただろう。

国家主義・国粋主義

 また、戦争してでも大ロシアを復活させたいというのは、ロシア独特の国粋主義であり、軍事力を駆使して実現を図ろうとするのは、軍事国家であり、ジンゴイムズ=好戦的愛国主義である。

 これは思想的な問題である。まず、国粋主義は国家主義である。国家主義は、人間社会において国家をつねに第一等に考え、国家の権威と意思に絶対的優位を認める立場である。全体主義と同じである。

 ウクライナ戦争でロシア兵も相当死傷しているはずだが、実体は不明だ。いったい、人命をなんと心得ているのか。と、怒りを感じるが、ロシアにおいては、素晴らしい国家事業の最先端での死であるから、死ぬことは最高の名誉であって、素晴らしいことになる。まあ、靖国で神様になるのと同類だ。

 自国民の命を重たく考えないのだから、ましてやウクライナの人々の生命・財産の価値に思い及ぶわけがない。

 国家主義、それの強力なスパイス効果でもある国粋主義は、戦争との親和性がきわめて高い。戦争から離れるためには、国家主義・国粋主義の思想とお友だちにならないことだ。国家主義・国粋主義自体が、それを信奉しない人を排除する傾向をもつ。かつて、わが国でも非国民・非愛国者のレッテルを貼られて苦しんだ人々が多かった。

 個人段階よりも国家主義の道徳は低い。お国のために命を懸ける結果が、泥棒・強盗行為と同類だというのだから、戦争する国家は、国全体が群盗・無頼漢的精神である。まことに情けない。

 国粋は、その国・国民に固有の精神・物質上の長所や美点である。人々が自分たちの歴史・文化・政治などを貫く国民性の優秀さを主張するのは自由であるが、本当のところは自己満足ではなく、他国の人々が素晴らしいと言ってくれてこそだ。国粋主義のおおかたは未熟・幼稚な自己満足で、他国の人々から見れば鼻持ちならぬ場合が多い。

 国粋主義が自他共に認められるのは、他国の人々から尊敬され、信頼される場合である。軍事力をもって他国を恫喝したり襲撃するような国の国粋を尊敬し信頼する人々がいるわけがない。

国家主義・国粋主義への掣肘

 人々が集まって国家を作っているのだから、各個人が国家・国民のために尽力しようと考えるのは素晴らしい。ただし、政治家が「あなたも、こなたも国家国民のために尽力しなさい」と呼びかけてはいけない。そんな御託を並べる暇があるならば、ひたすら自分が国家国民のために陰徳を積めばよろしい。

 なぜ、そのような呼びかけがいけないのか。国家は、1人ひとりの全人生を支援するために作られた。つまり、国家機関は各個人の人生のための推進機関である。きれいな言葉で表現すれば、「人間の尊厳」を推進する国家である。

 ところが、政治家は、各個人に対しては、あなた以外の他者を引き出して、あなたがわがままだと言わんばかりである。すなわち、あなた(各個人)と他者(国家)とは別々であって、あなたは他者(多数者)に奉仕すべきだというわけだ。「人間の尊厳」は、どこかへ飛び去ってしまう。

 どなたさまも、わが国は民主主義でございますとお考えだろうが、実はかなり怪しい。たとえば、マイノリティの人権をマジョリティが、多数決で決める! 人権を大切にしましょうキャンペーンでは、他者への思いやり! が強調される。これらは、理屈では間違いなく反民主主義的現象である。

 なぜ、戦争が起こるのか。「人間の尊厳」が無視されるからである。戦争を起こす国は、民主主義国であっても、民主主義ではない。「人間の尊厳」に国境はない。他国の人々の「人間の尊厳」を無視することは、実は自の人々に対しても同様の思想的状態なのである。

 国家主義・国粋主義を掣肘することが反戦・平和への道である。「人間の尊厳」=「基本的人権」であり、これらをまとめれば「個人主義」である。

 個人主義とは、個人の自由と人格的尊厳を立ち位置として、社会や集団を個人の集合して考え、社会や集団の利益が個人の利益と等しいと考え得るような見識・態度をいう。利己主義とは全く異なる高次の概念である。

 さて、戦争は嫌だという人は多い。しかし、戦争を(権力者に)させないという人と同じではない。「嫌⇒させない」から、「嫌=させない」となれば、国家の戦争を防ぐことができる。

 戦争は個人が起こすものではないから、無力な個人が戦争を止める力がないのだろうか。そうではない。個人は非力ではあるが、多数の個人が、戦争させないと意思表示すれば、バカな戦争が起こされることはない。


◆ 奥井禮喜 有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人