週刊RO通信

わざと戦争のリスクを高める抑止力

NO.1491

 論理のスジが通らず、シマリがないのは、わが国政界の一大特徴である。政党間、政党内のいずれにおいても、いわゆるお仲間意識が強い。論理のスジを押し出して党内の結束を固めようとすれば、必ず内紛が発生しガタガタする。長老、実力者、リーダーの顔色をうかがわないと、危なくてものも言えない。小才の人は、話の本質を迂回して、できるだけ抽象論でお茶を濁そうとする。だから、一般人には政治家がなにを考えているのかわからない。

 かと思えば、やたら細かい話にのめり込む。利益誘導で票をちょうだいすべく、人々の関心の高そうな問題を提起する。こうなると所詮徒党とはいえ、政権与党は強い。人々から預かっている税金を、あたかもわが懐中からのごとくにばら撒く。野党が「対決よりも解決」を唱えたい気持ちはわかるが、これをやってはお終いだ。志がいかに高邁であっても、問題の根幹・本質とは無縁に、与党の上がりのトリクルダウンを狙うのと同じだからである。

 たとえば有識者会議なるものがしばしば華々しく登場するが、問題の根幹・本質から自由闊達に議論が展開されていると感じたことはない。有識者自体が、与党・政府の眼鏡を通して選ばれ、会議は、官僚の敷いた線路上を走るのに過ぎない。直近の事例では、国葬を検証する有識者会議がそれで、形式論議ばかりで中身がない。中身中の中身は、安倍氏が国葬に値するような政治をしたのかどうかであるが、そんなものはどこにもない。

 さて、論じたいのは安保3文書である。国家安全保障戦略・国家防衛戦略・防衛力整備計画の3文書である。まず、安全保障戦略というならば、国家100年の大計である。下世話風では、わが国周辺が核兵器やミサイルを含む軍事力増強で賑やかだから、当方も対抗措置を講じねばならないと突き進んでしまうが、昔のヤクザの出入りと同じ感覚では困る。

 軍事力に対するに軍事力で対抗するのは、要するに戦争を受けて立つ。やれるものならやってみろ、倍返ししてやると啖呵を切るのと変わらない。政治家が発する稚拙な言葉、抑止力というものが、あたかも万能薬のような印象で受け止められている。正しくは、戦闘力であり、戦争力の一部であって、問題解決のための知的努力をサボり、破壊と殺戮の準備に精出すだけのことである。むしろ、いま盛んに語っている抑止力は戦争を招きかねない。

 攻撃を未然に阻止する抑止力の強化が必要というが、言葉遊びの域を出ない。わが国が大枚はたいてミサイルを設置した程度で、危ないから止めようというような国があるわけがない。核抑止論のバカバカしさが、この間、かなりの人々に理解されたことを期待するが、相手が核兵器を持っていても、いざ、やろうと思えばやる。核兵器自体が抑止力にはならない。

 核兵器を使わずとも、原子力発電所が攻撃されれば、たちどころにわが国の防衛機能なるものはギブアップするしかない。はたまた、人々が相手のミサイル攻撃を避けようとしても、逃げ込むべきシェルターがない。小さな島国である。戦争が始まれば、阿鼻叫喚の大騒動で、収拾がつかなくなるのはシミュレーションするまでもない。北朝鮮のミサイル騒動で、古式ゆかしく防空頭巾を被った避難訓練? がおこなわれたが、まるでポンチ絵である。

 政治家の能天気なジンゴイムズが日本中を支配するのはまことに剣呑だ。そもそもおおかたの人々は、抑止力があればすべて大丈夫と解釈しているのではないのか。自衛隊員定員24万7千人。災害での献身的活動には深く感謝するが、だからといって24万7千人に、わが国を防衛する力があるとはとても考えられない。万一戦争勃発となれば、日本人はすべて戦争に放り込まれる。徴兵制反対の声は飛び出す間もないくらい一挙に消滅するだろう。

 人々が、平和を安全と混同し、安全を安全保障と同一視し、安全保障を軍事的安全保障だと思い込む。これが、思考の堕落である。無意識のうちに軍事力で他国を支配できると考えているのではあるまいか。ジンゴイムズとは、政治的手段を尽くさず、軍事的手段に思想的にも逃避する態度である。

 政治的安全をこそめざさねばならない。政治的安全とは、外交と内政である。そして、――平和は消極的には、戦争もしくは敵対からの解放過程である。(ブリタニカ)――をつねに思い描いて、誰もが住みたくなる国造りに邁進する。議会で、かかる見識をこそ開陳し議論してもらいたい。