週刊RO通信

政権の足元を固め直す意味

NO.1484

 読売新聞は11月5日、「自民統治指針 首相は政権の足元を固め直せ」と題する社説を掲げた。政府自民党を支える読売新聞の社説である。岸田氏も木で鼻を括るような態度はとれまい。

 蚊帳の外から見ていても、事態は非常に深刻である。このところ岸田氏の会食は党政府の大物が目に着くので、得意技の聞く耳を活用して、なんとしても打開策を求めたいのであろう。

 しかし、一応同志的関係であっても、海千山千の諸氏ばかりである。本気で岸田氏を支える知恵を出すかどうか。まあ、活力があった時代であれば、とっくに岸田降ろしが始まっている。

 さっこん派手な立ち回りをする元気はなくても、権力を巡るジェラシーの執拗さ、いやらしさは、むしろ増幅しているから、岸田氏としては、せっかくお知恵を聞いても直ちに採用できないに違いない。

 一般国民の声とは違って、裏があり、そのまた向こうにヒネリがあって、裏なのか表なのか複雑怪奇である。聞くふりがあれば、話すふりもある。ここは、同志的諸氏よりも、利害関係がない立場からのまともな意見を聞くのがいちばんよろしい。聞く耳とは、本来そのようなものである。

 人間の結束が崩れるのは、外部の圧迫だと思いやすいが、そうではない。だいたいは、内部(と思っている)連中のタガが緩む。かつて、日本陸軍は外に向かっては天下一品の内輪ボメをする。一方バランスをとったつもりか、徹底的に仲間の足を引っ張るという、組織文化を確立していた。

 政治家は常在戦場というが、これは選挙だけではない。どこから矢玉が飛んで来るかわからんぞという深い意味がある。日本陸軍兵士は、ひたすら前へ突進するしかなかった。ぼやぼやすると、背後からヤラレた。そういう組織文化・伝統は旧軍が消えても、したたかに続いている。

 政権の足元が緩んでいるのは、なにはともあれ安倍長期政権の置き土産である。トップが率先して危ない橋を渡り、誰が見ても無理な理屈を通し続けた。最大の貢献者は官僚である。公然と安倍無理筋を支えた。

 もちろん、官僚任免権を揮われるという脅威もあっただろうが、なによりも安倍的鉄砲玉は担ぎやすかったからである。ただ、これは性格であるから、岸田氏が真似したくても無理であるし、つまらぬ真似はしないほうがよい。

 真似ではなく、正真正銘岸田流を発揮するためには、せめて、安倍長期政権の検証・総括をきちんとおこなわねばならない。ところが、整理のつかないままに党内足の引っ張り合いを意識したのかどうかは不明だが、国葬を打ち上げてしまった。これ、安倍無理筋の下手な真似である。

 目論み通りであれば、一段ロケット発射に続いて二段ロケットに点火という段取りだが、旧統一教会の自民党側中心人物が安倍氏だという事実が露見した。すでに故人だから関係を調査できない(しない)と答弁したのは最大の失敗である。いろんな事実をたぐっていけば、いくらでも調査はできる。

 調査可能ということくらいは、岸田氏も承知しているだろう。ところが、国葬を打ち出してリーダーシップを演出したものだから、これが手かせ足かせになってしまった。国葬で墓穴を掘るとは、駄じゃれにもならない。

 知らなかったとして、事実露見した以上は調査に踏み切ることも可能である。しかし、これは部外者の知恵に過ぎない。調査に踏み切る蛮勇! を岸田氏は持ち合わせていない。もちろん賭けではあるが、気のいい人々が多数派であるから、たぶん世間は支持率上昇に貢献しただろうが。

 政権交代は、人が代わるのであるが、過去の政治の遺産を担って新しい政治をやらねばならない。回顧すれば、安倍氏も含む戦後自民党長期政権の遺産は、非常に重たいお荷物である。くわえて内外情勢のさまざまもあるが、日本の国力・民力が直近の勢いだけではなく、構造的に大きく毀損している。

 岸田氏の采配は、相変わらず前例踏襲主義であって、「新しい」という面がまるで見当たらない。もちろん「新しい資本主義」など噴飯ものである。このままずるずる政権の座にぶら下がるか。心機一転、過去の検証・総括に基づいた政治家らしい政治に挑戦するか。岸田氏自身が変わらなければ、野垂れ死にの記録を残すだけである。読売社説の本音はこの辺りではなかろうか。