週刊RO通信

なぜ追悼に波風立つか

NO.1476

 読売新聞が9月9日、「安倍氏の国葬 追悼の場を静かに迎えたい」とする社説を掲げた。冒頭――長期間、首相の重責を務めた人の追悼のあり方を巡り世論が二分されて、政争めいた状況になっているのは残念なことだ。日本の現状は海外にどう映っているのだろうか――と書き出す。

 260の国・地域、国際機関から1,700超の弔意やメッセージが届いており、岸田氏が、各国からの敬意と弔意に対し礼節をもって答えるべきだと語るのを全面的に支持し、他者の視線を気にする日本人的社会通念を骨格として国葬の意義をまとめている。知・情・意の情を押し立てた。

 世論二分、政争めいた状況というが、火がないところに世論が放火したのではない。原因と結果を逆転させて、静かに追悼しない人々を、やわらかい表現ではあるが、きっちり批判する。まあ、それも見識ではあろうが、天下の大新聞が情緒的視野で社説を書くのは、感心しない。

 国民挙って静かに追悼できないのは、はじめに国葬という方法が岸田氏の独断専行で飛び出したからである。どなたさまも、もっともなことだと考えるような事情であれば問題はないが、そうではない。長期間首相の座にあったことと、その内容・業績と同じではない。このくらいはわかるだろう。

 逆にいえば、自民党や有志による葬儀であれば、誰も異論は唱えない。身から錆びが出ても、安倍氏に同情・追慕する人はいる。しかし、国葬と大上段に構えられると、それら以外の人にとっては、儀礼だからといって了解できないのは当然である。これも社説子にはわかっているはずだ。

 国の儀式だから国葬儀だというが、国は岸田自民党・政府のことではない。いかに政府与党といえども、国のワンノブゼムにすぎない。自分党=自民党=国と、ごった煮にする政治家のとんちんかんは毎度のことだが、読売新聞は痩せても枯れてもジャーナリズムの雄である。贔屓の引き倒しである。

 国の儀式だから国葬儀だという論法を押し出すならば、まず前提を押さえなければならない。すなわち、国のご本尊は国民各人である。たまたまの政府与党とその取り巻きではない。多数の国民が、国葬に値するか否かを問えと声を上げているのが本問題の核心である。

 岸田氏が遅れ馳せながら閉会中審査で説明した。しかし、先の記者会見の内容とおおかた変わらず、情にほだされた反応があったわけでもない。代わり映えしない発言を、丁寧になんど繰り返しても、壊れたテープレコーダー(ちょっと古い表現だが)であって、説得効果は出ない。

 国葬儀の法的根拠があいまいだという指摘に対して、岸田氏はまったく顧みない。国葬を巡る歴史的論議をみても、問題は十分に存在する。岸田氏は、国民の権利を制約したり、義務を課すものではないし、(たかが儀式であるから)立法措置は不要で政府判断で可能だと主張する。

 ちょっと待ってほしい。国民の権利・義務に関係しない国事というものがあるのか。あんたの悪いようにはしない。あんたには関係ないのだから、好きなようにやらせてくれというのである。言葉を代えれば、あんたは国民ではない次第だ。こんな法律の基本的認識のない人が首相である。

 社説子は、立憲議員が「国民が苦しいのに、税金を使う」旨批判したことにつき、――国の儀式費用と国民生活を同列で論じるのは無理がある――と断ずる。国の「儀式費用」の部分を、予算と置いても、防衛費と置いてみてもよろしい。この論法は、国のやることは国民と別だといっている。

 読売新聞が政府・自民党の応援団をやるのは烏の勝手だ。しかし、自民党の広報紙と同次元に落ちてしまうなら、ジャーナリズムではない。国民を代表するという意味がわかっていない政治家が多い。これも読売新聞は十分に理解しているであろう。贔屓であっても、正すべきは、正さねばならない。

 イエ―リング(1818~1892)は『権利のための闘争』に、「権利のための闘争は権利者の自分自身に対する義務である」と指摘した。自由な国家では、法こそが国王である。国民の力とは、国民の権利感覚の力に他ならない。

 民主主義のジャーナリズムが拠って立つ基盤は、ここにある。法に基づく政治が自由闊達におこなわれない国は民主主義ではない。波風立つことの意義をジャーナリズムに関わる人にはよくよく考えていただきたい。