週刊RO通信

こんな時代の——敗戦の日

No.1211

 ――玉音放送後の電車内で若い男が、戦争に勝っていると宣伝していたのに無条件降伏じゃないか。戦争に引きずり込まれたのも降参するのも知らぬ間だ。われわれをだまし討ちした当局が怪しからんと怒鳴って号泣した。

 戦争は国民全体の同意も納得も得ていない。軍人だけが戦争していて、国民は芝居でも見るように面白半分に眺めていた。そういう(国民的)精神分裂の挙句、惨憺たる破滅の淵に突き落とされた。――

 幣原喜重郎(首相在任1945.10.9~46.5.22)が組閣を命じられたとき、前述の電車内の光景を思い出した。あの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくてはいかんと、堅く決心したと幣原は回顧した。

 戦争放棄、軍備全廃、どこまでも民主主義に徹しなければならないというのが信念であった。平和憲法は占領軍GHQに迫られたのではなく、自分の信念であると幣原は語った。幣原の平和戦略は次のようなものである。

① 弱い軍隊なら作っても意味がない。

② 軍隊を作れば立派な軍隊を作ろうとする。

③ これが戦争の主要な原因だ。

④ 戦争放棄するのが一番確実な方法だ。

⑤ 軍備より必要なものは国民の一致結束だ。

⑥ 国民が一致結束すれば徒手空拳でも恐れるものはない。

 なるほど、簡単にして明瞭である。弱い軍隊ではだめだから立派な軍隊を作るとはどういうことか? 軍楽隊世界コンクール優勝をめざすことは可能だが、破壊力世界コンクールでの優勝は不可能だ。

 使わないものを作っても意味がない。作れば使いたくなる。しかし、負けるのはシャクだから、弱い相手を探して戦争せにゃならない。もちろん自分より強い相手とは戦争しない。立派な軍隊とて、こんな程度だ。

 ということであれば、自分より弱い相手とも戦争しなければよろしいわけだから、かくして、戦争するための軍隊は不要である。軍隊をもたなければ、他国に警戒され、恐れられる心配もなくなる。

 当方が戦争放棄しても、Terrible大統領みたいなのや、Mad委員長みたいなのが、なにをしでかすかわからない。しかし、刃物に刃物で対抗するのでは、当方も「おぞましく・平常でない」連中と同類項になる。

 戦争を放棄するというのは、その分、じゃんじゃん平和攻勢をかけるのである。たとえば、核兵器禁止条約には率先して参加して、所詮暴力で他を抑え込もうとするような紳士淑女を恥じ入らせねばならない。

 武力行使しなくても、人命救助や、医療・介護、インフラ建設のお仕事は世界中にいくらでもある。平和部隊として、世界中を駆け回ればよろしい。生命を支え、社会を建設する活動は周辺を必ず平和志向にする。

 軍備より必要なものは国民の一致結束――というのも極めて立派な考え方だ。単純に外敵に対して一致結束というのではない。国づくりは、国民1人ひとりが、みんなと共に活動的に生きたいと願うとき発展する。

 冒頭「号泣」若者の気持ちは、後世代のわたしでも痛いほどわかる。しかし、「自分は戦争に賛成ではなかったのだが、引きずり込まれてしまった」と百万回吠えたとしても、庶民に一切の非がなかったとはいえない。

 いまだってそうなのだ。目下の危険な状態は、Terrible大統領が100%正しく、Mad委員長が100%悪いとは絶対に決められない。根源は、朝鮮戦争がいまだ終結していないという事実にこそあるのだから。

 わたしたちはかたじけなくも1人の人間である。人間たる存在は、誰も1人で生きられないのだから、とすれば、人間らしく生きるとはどういうことなのか? という質問を常に自問自答しつつ生きねばならないであろう。

 国民の「安心・安全」を守ります、お任せくださいなどとおこがましく大声疾呼するような政治家にお任せするなど、すでに自己放棄の最たるものだ。臆面もなく繰り返される詭弁・虚言・抗弁の連中が国民を守るものか!

 ――戦争は戦争をしたことのない者に快い――(エラスムス)という言葉の重たさを噛みしめつつ、今年もまた「敗戦の日」を迎える。虚脱感から再建に立ち上がった当時の健康な精神を取り戻さねばならない。