週刊RO通信

「なんでもあり」の中身

NO.1469

 先日、コロナ対策4回目のワクチン接種をした。看護師さんの問診で、過去の接種後異常がありましたかと聞かれるので、なんともないですと応じて、前3回と同様に流れ作業的接種を終えて帰った。翌朝注射のしこりで痛みがあり左手を上げにくいと思っている間に全身けだるく、発熱ありで、終日のらくらして過ごした。4回目にして異変発生初体験であった。

 寝転がってとろんとしつつ、開高健『ああ。二十五年』を読む。1959年、「街のデザインの生態」と題するエッセイ。作家は銀座の雰囲気から、「日本はアミーバ―状の刺激過多症、混乱と無統一とデタラメのごった煮の底に、それらすべてを貪婪旺盛に受け入れて平然としている“大衆のエネルギー”」云々としか表現しようがないとため息をついている。

 筆者は当時、山紫水明のきっちり田舎で少年していたので、作家の深淵な含蓄ある文章を読んだとしても全然理解不能であったろうが、いまの日本的事情をみると、そのまま通ずるように思う。ただし、作家の指摘する大衆のエネルギーの方向性はおそらく、当時をプラスとすれば、いまはマイナスではなかろうか。単純にいえば、反発力がおおいに減退しているからだ。

 とつおいつ考える。1970年代までは、なんとか大衆のエネルギーらしきものがあった。ときおり、それがそれらしい表情を見せるので、政治にも経済にも緊張感が走った。大衆のエネルギーは80年代のバブルでおおいに弛緩し、90年代はじめのバブル崩壊で、緊張ではなく緊縮、さらに萎縮した。以降の30年は大衆エネルギーのちぢこまり時代である。

 政治的無関心とか、政治嫌いが多いのは昔からである。大事は、質の問題である。選挙で投票に行こうと躍起に宣伝する。これは量の問題で、投票率が上がって一時的なブームが起こると野党が意外な善戦を果たすが、政治の質が好転したことは、まあ、まずないのではなかろうか。

 2009年、いまはない民主党が政権を奪取した。マスコミが騒動したように、「自民に不満・民主に不安」において、不満が不安を凌駕したからであった。いまにして思うと、民主にやらせてみようという意思よりも、不満の意思表示であった。だから、政権交代しても、政権を見る眼は自民政治の価値尺度と変わらず、内部分裂もあって、民主党は下野に追い込まれた。

 自民政治の価値尺度は、いわば、悪いようにはしません、お任せくださいの「安心・安全」である。つまりは、よくも悪くも、過去の経験、習慣性に立った政治である。もちろん、民主党が変革しようとする志を人々の眼前に展開できれば、新たな質に向かう政治状況が現出したかもわからないが、政権交代の速やかな成果を出そうと焦ったわけで、未熟なまま潰えた。

 自民党的「安心・安全」を別の表現にすれば、あれもほしい・これもほしい的な気風に対応して、「場当たり的な柔軟さ」が売りである。人々が本気で政権選択をしなければならないような課題を掲げずに来た。

 自民党内部には、かなりの保守強硬派がいる。彼らは日本主義・国家主義であるから、日米安全保障条約で米国追従外交をやらざるを得ないことは本意ではあるまい。厳密にいえば、日本主義と安保は保守派からすれば自己矛盾であるが、なぜか、日本主義の頭に安保が鎮座しているわけだ。客観的には、誇り高い日本主義イデオロギーにとって愉快ならざる事情のはずだが、自民党的融通無碍=場当たり的柔軟性が機能している。

 ジンメル(1858~1918)は、「社会は諸個人の能動的および受動的な活動であって、個人が優れた性質をもっているとしても、それが優れていればいるほど、他者から浮き上がる。だから、個人が集まって大衆を作っているのだが、大衆の性質や行動様式は価値の低いものとして現れる」。「大衆はメンバーの完全な個性から生まれた構成物ではなく、メンバーの性質のうち、他の人々と一致する部分、目的へ向かって最短距離を突進し、1つの観念で、もっとも単純な観念に支配される」。ありていにいえば、水は低きに流れるというご託宣だ。自民党的ポピュリズム政治の本質を突いている。

 人々が投票に行かないことを期待する自民党の強さ! の理由をちらりと見たような気持ちになる。とくに、野党人士におかれては、野党が、低きに流れず存在感を発揮するにはどうするか。構え直してもらいたい。