月刊ライフビジョン | 論 壇

民主的[労働運動+政党]論

奥井 禮喜
政党の存在理由

 立憲民主党と国民民主党が問われているのはなにか? もっとも問われているのはパーティ・アイデンティティ(党の存在理由 以下PI)である。現状を変えるには、政党としてのPIをもっと明確に押し出すべきだ。

 人々が、立憲(国民)は、このような理想をめざして活動しているな、と認知してもらえるようなPIがあるだろうか。数が少ない割に、仲間作りに本気でない(下手くそ)政党だという理解はかなり浸透している。

 政党は、政権を担うことをめざすが、現段階で政権奪取を呼号しても意味はない。階段は1つずつ着実に上るべきだ。そのためには、政権構想の基盤となるPIを人々に理解・記憶してもらえるように、喧伝に努めねばならない。情緒的表現を使えば、もっと、熱がほしい。燃えるなにかがほしい。

 日本政治は、戦後、ほぼ一貫して政権を担った自民党によって、習慣的に構築されてきた。かりに政権交代しても、自民党と同じ政治を展開するのであればまったく意味はない。だから、政権構想を打ち出すのだが、それは、まず自民党政治の歴史的総括に基づく必要がある。

 民主党政権の失敗は、自民党政治の歴史的総括がきちんとできていなかったからだ。政権を取ればなんとかなるのであれば、畢竟、第二自民党にすぎない。自民党との違いを確立していれば、少々の波風にぐらつくことはなかった。

 PIがあいまいなままで、ただいまの政治課題について、与党の政策Aに対して、野党が政策Bというような対置をするだけでは説得力が弱い。ところで、対決より解決という、いわゆる玉木路線なるものは、与党政策Aに基づいたAダッシュ的提案である。現実に非与党ではあるが、与党的思考圏内にあり、真っ当な野党ではない。なによりも、まず議席増加第一という苦しい台所事情は理解するが、アンチ自民党の人々を惹きつける力にはならない。

 それは躍進する維新が影響していると思われるが、維新はあきらかにAダッシュ提案型である。躍進の理由は、なにかしてくれそうだという未知数に寄せられたもので、維新の(行状も含む)データが増え、体質明瞭になるにつれて、単独で与党対抗勢力になる可能性が薄いことがわかる。あえていえば、与党内で公明党が香辛料的役割に腐心しているのと同様の立ち位置である。

野党スピリッツ

 民主党下野以来、旧民主党勢力は、いいところが見えない。これ自体が、きわめて奇妙である。安倍政治8年間は、たしかに解散選挙戦略に振り回された。老舗自民党の選挙上手、数における劣勢は仕方なく、議会運営は自民党の数に押し切られた。その結果、国会が空洞化したのも事実である。

 しかし、議会がダメなら街頭へ出て訴える方法もある。いかに小たりといえ、宣伝する方法がないわけではない。大政党の真似ではなく、小政党らしいピンポイント、ゲリラ戦術もある。

 その点、立憲の機関紙はまるで迫力がない。極論すれば、名刺的カテゴリ―にある。議会で言い足りないことが山ほどあるだろう。メディアがサービスしてくれないのは初めからわかっている。とすれば、自前の機関紙が社会に向かって大咆哮せねばならない。気合が入っていない。

 立憲・国民両党は連合と仲間である。連合傘下組合は、選挙活動で両党を支えている。ただし選挙活動は所詮選挙活動である。日常的に、各組合に働きかけて政治的見識を披瀝し、また、働く人々からの意見を吸収する。地味な活動ではあるが、政治は大衆運動である。大衆の中へ飛び込む気概なくして、政党の発展はない。大衆運動を起こすのに、お公家さんしていてどうするんだ。

 自民党は、国民政党というが、政財官のトライアングル、きわめて実利的政党である。こんなことは大昔から自明の理だ。野党が、堂々と働く人の政党だというならば、労働者階級と呼ばずとも、働く人の組織体である労働組合と、もっと連携した活動を展開するべきだ。しがらみだのなんだのと、もたもたしているから、貪欲な自民党が連合にちょっかいを出す。

 小回りを利かせるべきなのに、大政党よろしくでんと居座っている。これでは大衆の支持をえられない。そもそも仲間内の小党同士が角突き合わせる暇があるのか。そんなことで天下国家を論じられるものか。

連合労働運動

 連合は相変わらず腰が定まらない。まあ、連合といえども政治プロ集団ではない。民主的組織であるが、組合組織は大昔から典型的上意下達システムである。だれがボスかで組織活動の持ち味が変わる。政治大好きの山岸初代会長以外は、ひいき目に見ても、政治好き(?)はいない。

 ここで政治好きというのは、政局である。政治と政局は異なる。ものごとにコンテンツ(内容)とプロセス(過程)があるが、政治がコンテンツ、政局はプロセスである。報道される政治のおおかたは政局騒動である。政局騒動が政治だと心得違いする国の政治レベルは、政治的未熟である。

 敗戦後日本は、専制政治国家から民主主義国家に変身した。ただし、鎌倉開幕から敗戦まで760年間にわたって、人々が政治を敬遠してきた意識状態である。人々が民主主義にしたのではなく、GHQによって民主主義になった。「なった」ことの意味をすべての人々が自分の力量で理解し消化したとは思えない。

 制度(プロセス)が変わっても、中身(コンテンツ)が自動的に変化しない。中身を変えていくのは人々である。つまり、人々の意識が民主主義に代わらなければならい。これは、大変な事業である。一方の自民党は、本質的に戦後の憲法を忌避し、自主独立の憲法を立てたいとする。そのコンテンツは、2012年の自民党憲法改正草案によれば、限りなく、戦前の憲法に基づく政体をめざしている。自民党が人々の民主主義意識を向上させるつもりは全くない。つまり、自民党政治の歴史的検証の第一は、その非民主主義的体質に対してであり、政権奪取を狙う野党としては、なによりも民主主義政党としての理想と段取りを明確に掲げなければならない。

 前原・小池コンビによる旧民主党の流れを汲む民進党が崩壊した際、急づくりであったものの、枝野立憲民主党の立ち上げに、強い支持が生まれた。そのまま推進すれば、かなり大きな野党が育ったはずだが、創立の精神が画然と維持されず、非力をもって政権交代を呼号したために、ずるずると退潮化した。

 連合は、民主主義に基づき開明的政治を求める働く人々の組織である。組合に属する賃金労働者だけでなく、未組織労働者、中小企業者、農業・漁業者、志を同じくする社会各層(=権力から遠い)の人々と共闘するはずである。野党が育たないのは、連合労働運動の非力・低調が全面的に関係する。

 選挙を控えて、民主主義を推進するという立場よりも、野党共闘の選別に熱が上がった。そのひな形は、山岸時代にありそうだが、当時とはまったく情勢が異なる。先世代がおこなったことを検証せず継続するのはナンセンスだ。まして、政局大好きキャラクターの山岸氏と、ヤワに育った世代が同じことを考えるのはますますナンセンスである。

 選挙戦略でいえば、共闘して力を大きくするよりも、わざわざ身近な範囲で騒動を起こすのだから、それ自体が大きな失敗である。結果的であるとしも、立憲と国民との間を割いて、国民を「ゆ」党に追いやってしまう。

 連合は大衆運動の視点でみれば、目下、ほとんど見るべきものがない。あえて春闘が大衆運動の柱だとしても、例年、大衆段階で見ればまったく盛り上がりがない。いかに、多数の組合を組織しているといっても、その組合のほとんどはユニオンショップの、組合費チェックオフでもっている。逆にいえば、組合員多数が運動に参加するために組合費を収めるという気風はどこにもない。

 政府が経済界に賃上げを要請するのは、所詮、トリクルダウン説であって、政財関係からして、政府の要請で賃上げが高まるわけがない。その前に、組合員の賃上げ要求の声が高まらないのを、連合はじめ組合幹部はどう考えているのだろうか。いまのままでも、組合内部に反幹部闘争が発生せず、組合員は組合方針に従っているから、幹部諸君は座り心地がよろしいだろうか。

 組合役員は本来民主的手続きの選挙によって選ばれるはずだが、いまや組合内部で選挙らしきものがない。形式的には民主的に選出されているが、果たして組合員の本気の支持があるだろうか。これは、単位組合から産別・連合と上部へ行けばいくほど、ポストに冷たい風が吹いていると考えねばならない。だいぶ前から労働組合においては、組合員のアパシーが問題になっている。いまや、アパシーは組合役員段階まで浸透していることが危惧される。

 組合役員は、個人の時間を割いて活動している人々が圧倒的多数である。専従職は全体では少ない。組合役員は、専従・非専従問わず真面目に活動している。それは認めるが、忘れてはならないことは、組合機関の活動と組合員が参加する組合運動とは別物である。

 たとえば、中央メーデーはせいぜい3~4万人の参加である。ほとんどはなんらかの役員である。労働4団体があった時代には、中央メーデーは40万人である。コンテンツとプロセスの関係が現在より相当接近していたことは事実である。逆にいえば、現在は、コンテンツがない形式を展開して、組合活動としているわけだ。メーデーに行政が主賓で挨拶する。日本は、いつから社会主義国家になったのか、奇妙な光景である。

短い結語

 筆者は、組合は民主主義の旗を掲げて活動するものだと確信する。組合と志を同じくする政党も民主主義の旗を掲げて活動する。両者のベクトルが一致して、民主主義によって立つ大衆運動が高揚する。それこそが、いま、野党や連合がめざす方向でありたい。

 野党の足腰が弱いという説がある。これは、組合もまた決定的に問われている。果たして足腰が弱いのだろうか。愚考するに、問題は「頭」にある。愚かだというのではない。民主主義によって立つ大衆運動をやろうという意思が弱い。意思が意欲を呼び覚まして、意欲が行動を起こす。ゆえに、足腰が弱いのは「頭」だという所以だ。

 日本の民主主義は、やはりまちがいなく危機的段階にある。もちろん、みんなで渡れば怖くないという考え方もある。しかし、知性は民主主義の危機的段階を承知している。理性は、そのまま流されることを好まない。知性と理性に基づいて、没落させないために、連合と野党の活発化を心から期待する。


◆ 奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人