週刊RO通信

儀礼ではなく、政治の中身をこそ

NO.1468

 民主主義において、かたじけなくも政治家として選出された人が、くれぐれも頭に叩き込んで言動・行動の重石とするべきは、自分がエリート、特別の存在であるなどと考えてはならない。特別の存在と考えるのは、民主主義に背馳する独善であり、エゴイズムにはまるからだ。

 最近、わが道を行く感のあった英国首相ジョンソンが、あろうことか同志たる保守党議員によって拒否され、党代表・首相を辞任した。ブレグジット(EU離脱)運動で頭角を現したジョンソンだが、ブレグジット運動の最中からの嘘がバレたことに加え、コロナ下での自己中心主義の嘘によって止めを刺された。さすが英国民主主義は日本とはおおいに異なる。

 プーチンや習近平、トランプ、エルドアン、オルバン、ルカシェンコなどなど、強いリーダー(独裁者・権威主義者)として扱われるが、その他の国でも、たとえばわが国においても、「強いリーダー出でよ」の気風が強い。強いリーダー待望論が表面化するのは社会的閉塞感が強いからだ。

 強いリーダーを求めるのは、善政期待のなせるわざである。清き1票だけに善政期待を託すのは、リンカーン流でいえば、人々の・人々による・人々のための政治のなかの、「ための」だけが突出する。「ための」だけであれば、性根は独裁者・権威主義者を求めているのと同じである。

 そこで展開されるのが広告代理店主導型のパフォーマンス政治で、書き入れ時が選挙戦である。選挙で政策論争せよというのがそもそも無理な話である。議会において本質的・コクのある論議ができていないのに、浮ついた選挙戦でしんみりねっちり政策論議ができるわけもない。

 その間隙を突いて、今回参議院選挙では、選挙を商売と心得て勝負をかける新興勢力が目立った。政党助成金は、政治の質を向上させるための制度だが、いかんせん、選挙の合間に政治をおこなう政治家揃いだから、助成金狙いを堂々披瀝する正直者! も登場する次第である。カポネは暴力をビジネスにし、ナチは暴力を政治に持ち込んだ。今度は、政治をビジネスに見立てる。まことに天晴な! 心がけというべきか。いやはやなんとも。

 与党の公約も、ずらりと課題を並べただけで中身が薄い。いや、野党も右に同じ体たらくで、無料の天井桟敷からとはいえ、面白くない。怨念の狙撃で緊張が走って、民主主義を守れと大合唱になったが、これまたピント外し、中身空疎の典型で、とても政治に性根が入ったとは思えない。

 国葬をおこなうらしい。文化人類学では、葬儀は儀礼の1つで、社会(集団)の連帯といった価値や、結婚・死去といった事件を明確に表現し、心に強く刻み込む働きをもつという。国という括りになると、人々のさまざまな視点・見解が輻輳するので、一般的な社会集団の儀礼と同じではない。政治家の場合、なによりも、その政治的評価が固まっている必要がある。

 国葬の是非について岸田氏は、内閣の最長記録・国際社会の評価・実績の3点を挙げた。最長記録は事実であるが、長いにしては実績がお粗末だ。アベノミクスのネーミングで誇大宣伝をやったが、日本経済は量もさることながら質がきわめて劣化した。とくに強引な政権運営、嘘答弁で議会制民主主義を貶め、官僚の堕落を招いたことと合わせて失点は庇い切れない。

 つまり、国家儀礼を押し出すには、安倍氏の場合、歴史的評価がバブルであると言わざるを得ない。国葬が、ある社会集団の政治的イベントになるのは、追悼というよりも、亡き人の政治的利用である。だからアベイズムを是とする同志的社会集団の儀礼としておこなうのが適切である。

 たまたま東電原発事故に関する株主訴訟の東京地裁判決が出された。肝は、東電旧経営者が善管注意義務を果たさず、任務懈怠だというにある。読売社説(7/15)は、「東電13兆円判決 現実離れした賠償額に驚く」としたが、シビアアクシデント対策を怠り、現実に発生した事態の責任を数字で表現したものと考えれば、被災して人生を狂わされた人々の気持ちの総和は、それでも到底均衡できないであろう。責任が取れない怖さを知っていたか。

 選挙の合間に政治をおこなう人々は、この判決の真意をくれぐれも忘れないことだ。他人事ではない。政治が、いま問われているのは儀礼ごときではない。任務懈怠だということを肝に銘じておく必要がある。