週刊RO通信

閉塞感続く日本的事情を考えたい

NO.1467

 参議院選挙運動期間残り2日、奈良県大和西大寺で選挙応援演説をしていた安倍元首相を襲った銃撃は、誰もが大きな衝撃を受けただろう。わが選挙運動においては、猛烈な野次が飛ぶこともなく、だいたいは静かなものだ。まして演説者が狙撃された記憶はない。政治・選挙に対する無関心、低投票率が話題になっても政治テロが話題になったことはない。

 1960年10月12日、日比谷公会堂での自・社・社民3党首演説会における浅沼稲次郎(1898~1960)刺殺事件は、筆者が高校1年生の年だった。凶行におよんだ狂信的な右翼少年山口二矢が同世代で、彼の自殺をテーマに、たまたま校内討論大会で論じた。残念ながら粗雑で幼稚な意見のぶつけ合いに終始した。政治テロについての考えを深めたわけでもなかった。

 一般に暴力事件は、おおかたの人々にとって日常の関心外であろう。暴力団はまだ残っているが、別世界の問題のようである。事件・事故が発生した場合、直接の縁がなくても多くの方々が弔問に訪れる。日本人の平和で平穏な生活への願望は非常に強い。だから、元首相が選挙応援演説という衆人環視の場で、至近距離から狙撃された衝撃は大きい。

 犯人は、41歳で2002年から05年まで海上自衛隊に勤務していたという。政治テロならば、政治思想が絡むが、本人の供述などから、安倍氏の政治思想信条に対する怨恨ではないと報じられた。ある宗教団体を怨んでおり、そのトップを狙おうとしたが難しく、トップと安倍氏が親しくつながっていると思い、安倍氏を狙ったという。

 犯人の母親が宗教団体にのめり込んで、多大の寄付をするなどあって、家庭が崩壊したという。安倍氏が宗教団体トップと近しく、宗教団体を宣伝して広めたとして、殺意を固めたらしい。政治的意図がまったくなかったとすれば、怨恨殺人だが、他人としてはなかなか理解しにくい。

 犯人の理屈そのものが理屈にならない事件がいろいろあった。思いつくままに挙げてみる。2008年秋葉原無差別殺傷事件(7人死亡・10人負傷)、2016年相模原障害者施設殺傷事件(19人死亡・26人負傷)、2017年座間9人殺害事件、2019年京都アニメーション放火殺人事件(36人死亡・33人負傷)など、いまでも気持ちが動揺する。犯人の心の闇と形容しても、その中身を常識的に理解するのは難しい。

 心の闇に共通するのは、世間からの孤立だ。ふだんは物静かで、格別関心を持たれていなかった若者が、なにかに対して、恨みを晴らすべく報復した事件である。報復によって、自分がなにかを獲得するのではなく、報復することに意義があると言わんばかりの事件で、被害者はまったく浮かばれない。彼らは社会秩序の考えがまったくないのだろうか。社会秩序のなかに自分が存在するのであれば、少なくとも自暴自棄の行動には出ない。社会秩序と切れているから、理屈など問題にしない犯行が発生する。

 9日の社説は、銃弾が打ち砕いたのは民主主義の根幹である(朝日)、自由な言論を暴力で封じようとする(読売)、民主主義の破壊許さない(毎日)など大上段の言葉が並んだ。しかし、いわゆる心の闇的な凶行に対して、民主主義に反すると吠えても、犯人の気持ちに響くだろうか。

 むしろ、この30年間以上、わが社会が閉塞感にとらわれていることや、ゴリ押し与党のもとでの不毛の政治状況を直視するべきだ。寄り添うという言葉を政治家が多発せざるを得ない事実を見ても、政治の衰退が見て取れる。ウクライナ戦争の人命軽視が、暴力への抵抗感を失わせる。人間の尊厳が人々の定言的重みを失うとき、民主主義は大きく後退する。いうならば、「社会の闇」に対峙する気迫を政治や社会の力としなければならない。

 また、弔問記事だから仕方がないとはいえ、安倍氏を悲劇のヒーローに仕立て上げるような内容が圧倒する。民主主義を大上段に構えるのであれば、安倍政治8年間に、議会制民主主義が前進したか、再考してみればよい。安倍氏のリーダーシップを評価するのは構わないが、議会制民主主義の尺度で見れば、賞賛だけではすまない事実がたくさんある。それを無視するのは、歴史を改竄する立場になる。感情で政治的評価をおこなうべきではない。

 事件で目がくらむのであれば、それこそ民主主義の崩壊である。