週刊RO通信

天下国家を論ずる内外の政治家に

NO.1456

 国民民主党の前原氏は、頭も切れるし、人柄もよろしいそうだ。お付き合いがないものからすると、他者の人気に頼って民進党を瓦解させた中心人物という印象が容易に消せない。こんどは、大阪中心に勢いがある維新と語らって、風と雲を呼びたいらしい。政界の仕掛け人というには頼りないのが遺憾である。野合でもなんでも、生き残りをかけての乾坤一擲というほどでもないが——まあ、宇宙シャトルがタイル1枚で爆発したこともあった。

 昔から世慣れた政治家が権力ゲームに執心する光景はあったが、以前は、満を持して大きなことに賭ける印象が強かった。さっこんのそれは、なにやらちまちまして、天下国家のため日本と国民のために大局から云々と語られても、大きな賭け事だという印象はさらさらない。政治家の言葉は、やはり現実になそうとする事業の大きさによって軽重がはっきりする。

 国際連盟を提唱した米国大統領ウイルソン(1856~1924)は、記者の「うまく行くのか?」という質問に対して、「うまく行かないようなら、うまく行くようにすればよい」と、答えた。蒟蒻問答であるが、歴史に残る言葉である。成功であろうが失敗であろうが、大きな課題への挑戦であった。

 参議院議員選挙は、政党・議員にとって、いわば生殺与奪の闘いだから、与野党挙げて皆さんの関心が高いのは理解するし、同情もする。できることなら、それこそ、天下国家の大騒動に焦点を合わせて、われわれはいかに世界平和を構築するかという高邁広大な見識を開陳してほしい。

 ウクライナ事情を見て、単純に、軍事的防衛能力の向上論議にあたふたするのは、どうも面白くない。殺傷された方の正確な事情は不明だが、国内外合わせて、国民の1/3、1,200万人が家を捨てねばならなかった。たまたま自宅にいる人たちも、精神的・物質的苦悩が大きい。かつての生活を失い、これからどうすればいいのか。ひとごとではない。

 関係する人の数ほどある巨大な精神的・物質的喪失をちょっと考えただけで、気が遠くなりそうである。開戦以来約60日、難民は1日平均20万人である。1日でも早い停戦を主張せずにはいられない。わが、政治家諸氏の間で、いったい、どのように高遠高邁な平和論議が交わされているのか。G7一致結束を唱え、付いて行くだけではリアルな議論と言えない。

 とかくリアリズムは、目的の意義を軽視しやすく、つまり場当たり的になりやすい。戦争が発生すると、はじめ精神状態はパニックであるが、長引くにつれて戦争が日常化し慣性化して、なにが真の問題なのかを、見極められなくなる。戦争が生む混沌である。

 『英国文明史』の著者バックル(1821~1862)は、――戦争への嫌悪は知性ある人々だけが持っている高雅な嗜好である。――と書いた。なんとも人はバカにした表現みたいであるが、現実を見ていると、バックルが孤高に鎮座して、上から視線で皮肉っているのではない。まさに的を射ている。

 つまりは、「力は正義なり」の野蛮にして未開な思想が、世界中にまん延してきたのではなかろうか。プーチン・ロシアが、いかに西側からボロクソに罵倒されても、このままでは、ひっきょう世界中がプーチン・ロシア化する。その意味で、プーチンは、せっかくの歴史を大きく逆行させることに成功した巨大な悪党として歴史に名を残す。まともなわれわれは、これではいかん。その手に乗るものか、という見識をこそ確保し続けなければならない。

 ミシェルEU大統領が、キーウ入りして、「正義なき平和はあり得ない」と語った。第一次世界大戦の1917年ウイルソンは議会で、「正義は平和より重い」と見栄を切った。27年ブリアン仏外相(1862~1932)は、「平和はなにものにも優先する。平和は正義にさえ優先する」と正反対の言葉を語った。前者では、戦争が正義になる。果たして、それでよろしいだろうか。

 そもそも政治家たる職業人は、自分が展開する政策に好都合な道義的表現をする。そこから、自国の軍備は防衛的で、他国の軍備は邪悪だという考え方が生まれて、一旦火を噴けば、ウクライナ戦争と同じである。

 戦争は、とにかく、やらないことが大事。始まったなら、一刻も早く戦争前の状態に戻すのが最大の政策である。なんども主張するが、いま必要な世界の結束は、直ちに「停戦する」合意である。戦争する合意ではないのだ。