週刊RO通信

ジンゴイムズの世界を拒否する

NO.1452

 ジンゴイムズ(jingoism)とは、盲目的(好戦的)愛国主義である。いまや、ロシアとウクライナの戦争に直接関係がない立場の人の頭にも、ジンゴイムズが沁み込みつつある。ジンゴイムズ・パンデミックに世界の人々が感染するのではないか。ハラハラさせられる。

 戦争は、戦争を体験しない者にとっては麻薬的効果がある。巨大な軍事力をようするロシアに向かって、たじろがず一歩も引かず、雄弁をもって世界中に呼びかけるゼレンスキー氏は、まさに英雄的である。赤い血が流れている人間にとって、気持ちを揺さぶられるのが当たり前だろう。

 ただし世界的競技会で、アスリートが、ひごろ鍛えに鍛えた腕の冴えを発揮して頂点に立つ雄姿とは全然異なる。戦争の英雄は、本人が好まなかったとしても、血まみれである。いかなる大義を掲げようとも、人間らしい心地にはなれない。それは熱い血潮でなく、冷血である。

 プーチンとゼレンスキーの両選手が、「明日のジョー」をめざして、四角のリングで格闘するのではない。頂点に立つ2人の裾野では、名前すら知られることなく、戦闘的か非戦闘的かはともかくとして、たくさんの人が戦禍に斃れていく。闘い終わって訪れるのは死の平和である。

 プーチンが軽率に始めたウクライナ侵攻は、膠着的状態を呈して、ABC兵器(atomic・bacteria・chemical)の戦争の危惧すら出ている。そうなれば皆殺し戦争で、最悪の戦争、人間性の破滅だ。

 プーチンの誤算! で、軍・工場への攻撃から、都市への攻撃となり、国民への攻撃となって、すでに無差別攻撃である。出口のない戦争が、戦争拡大になり、戦争自体が目的化する。戦争は外交の1形態だというが、侵攻1か月を経ても、外交らしい外交が進展しない。当事国だけではない。

 「力こそが正義」論に基づくならば、力の決着を求めて、あらゆる手練手管が駆使される。なるべくしてではなく、アメリカ大統領に就いたトランプが、「使わないものを作るのはナンセンス」だと公言した。人間を前提した価値観を持たぬ人物の、単純な合理主義による発言である。ただし、笑い飛ばしてしまうわけにはいかない。そのときが限りなく近づいているからだ。

 かりに、ウクライナとロシア間だけの戦争として、西側がウクライナに兵器をせっせと供給する。武器同士が戦争するのではない。片方の兵器は相手の人を殺傷する。いずれもが一歩も引かず、戦争がおこなわれるならば、当事国双方の最後の1人まで武器は活躍する。相互皆殺しである。

 戦争の死には「誇るべき意味」がない。これを忘れたくない。もし、戦争の死に高邁な意味があるとしたら、戦争だろうが、平和だろうが、生き延びることには、なんの意味もないことになる。戦争は生の否定だ。

 たしかに、「生きる意味」は不明だ。気がつけば生まれていた。もの心がついても、「生きる意味」が啓示されない。生きるとは、虚無を生きることでしかない。死んでしまえば、面倒な「生きる意味」などをわずらわずにすむ。

 紀元前6世紀ごろまでのギリシャの人々は、「できることなら、生まれない方がいい。もし、生まれたならば、少しでも早く、生まれる前に戻ることだ」と考えた。苦悩を越えて、彼らは、「生きることは、厄介で苦悩だ。そうなのであれば、現実を直視して、とにもかくにも愉快にやってやろう」、「世界はわたしにとっての舞台だ」と、コペルニクス的転回をやってのけた。

 古代ギリシャは土の中に消えたが、自分の人生に自身が意味を作ってやろうという気概は、ルネサンスで掘り起こされた。いま、それを意識する人も、しない人もおられるだろうが、少なくとも「生きる」ことを否定する人は多くはないはずだ。戦争は、「生きる」大切さを、人間が作った武器によって壊滅させる思想的・物理的悪行以外のなにものでもない。

 言葉を代えれば、戦争は、人間がモノの後塵を拝する行為である。生活の便利のために、人間はモノを作ってきた。モノが人間を奴隷にする。それも、他の人間を殺傷するために。わが安全保障、自衛のためにと称して、おおかたの戦争が始まった。すべての人のための安全という見地に立って、問題解決するのが内外の政治であるはずだ。人間とモノが倒錯関係に立ったのは、人間の精神が腐敗し堕落しているからだ。ジンゴイムズを拒否する。