月刊ライフビジョン | 地域を生きる

地域から考えるウクライナ侵略

薗田 碩哉

 2022年2月24日に突如始まったロシア軍のウクライナ侵攻、2カ月目に入っても収束の気配はなく、ミサイルが容赦なく町を破壊し、市民の犠牲者は増えるばかり。ゼレンスキー大統領の表情には悲壮感が色濃く漂い、アメリカはじめ西欧の国々も、膨大な数の難民をひたすら受け入れるばかりで、戦争自体を止めさせる妙案は打ち出せずにいる。毎日毎夜、そんな状況を報道するテレビの前で、世界中の市民が専制国家への怒りとなすすべのない無力感に苛まれている。

 ウクライナと言えば古都キエフが思い浮かぶが、中世のキエフ公国は、その後のロシア王国のルーツとなった国だ。そこへ押し込むのは、自分たちの淵源を踏みにじることに他ならない。言ってみればモスクワが江戸ならキエフは京都、東京が京都に一方的に殴り込みをかけたようなものだ。ロシア語とウクライナ語は同じスラブ語族の親戚で、その違いは日本語と琉球語ぐらいなもので、共通する言葉もたくさんある。ウクライナがNATOに秋波を送ったのが大ロシアの国益を損なうという難癖なのだろうが、それはあんまりだよプーチン殿。おまけに原子・生物・化学の3兵器(ABC兵器)の使用をちらつかせるなぞ、あえて“人類の敵”を演じようというのか。地域のおじさん・おばさん連は、寄るとさわると独裁者の非を鳴らし、ウクライナの善良な市民、いたいけな子どもたちの命が今この瞬間にも失われていることを嘆き、そういえばミャンマーでもシリアでもアフリカの国々でも、同様か、あるいはもっとひどい事態が進行しているかもしれないことを改めて想い起こしたりしている。一市民にできることと言えば、ネットで送られてくる戦争反対の電子署名にクリックしたり、町のウクライナ支援の募金箱に小遣いの一部を投じたりするぐらいだが、その効果のほどは覚束ない。

 こんな状況の中で、何の権力もなく財力もない私たち市民にできることは多くはない。せめてこれを機に、ロシアの文豪トルストイに倣って「戦争と平和」について徹底的に考え抜くことから始めようと思って、仲間を語らってノーベル賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』を読むことにした。彼女はウクライナで生まれ、ベラルーシで育った。ロシア語で書かれたこの本は、ヒトラーとスターリンという二人の独裁者がそれぞれの国力の全てをかけて激突した独ソ戦の実相に迫っている。この時ソ連は百万人を超える女性を従軍させ、その多くが武器を手に凄惨な戦いに参加した。作家は、戦後何十年も経ってから、その女性兵士たちの重い口を開かせてそれぞれの戦争体験を語らせている。ソ連国家にとっては、強大なナチスを打倒した輝かしい戦争として誇らしく記述されている戦争の内実は、女性兵士から見れば、言葉に出来ないようなおぞましい事実に満ちた、人間性の徹底した破壊でしかなかった。ロシアの人々はこの本をどんな思いで読んだのだろうか。そんな戦争が四半世紀を経て再びウクライナの街や農村で繰り返されようとしていることを、心あるロシアの市民はどんな思いで受け止めているのだろうか。

 日本の中国侵略にしても、これに勝るとも劣らない悪魔的な所業が数限りなくあったはずで、そのほとんどが戦後長いこと封印されてきた。その後、死期を迎えた元将校や元兵士たちの証言が少しずつ世に出るようになり、最近になってようやく明かされた真実もある(満州における開拓団の末路など)。それらの事実を正面から見つめ、戦争というものの非人間性、反人間性について、しんどくても語り合うことがせめてもの「私たちができること」なのだと思う。

地域のスナップ】公園での電子ゲーム

夕方の地域の小公園、小学生がベンチを囲んで額を寄せあっている。何をしているのかと思ったら電子ゲームを囲んで一緒に遊んでいる。筆者のガキ時代には、メンコやベーゴマを囲んだものだが、それは遥かな昔ばなし。でも仲間と一緒に遊ぶ楽しさは、今も昔も変わらない。           《地域に生きる 2022年4月》


薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。