月刊ライフビジョン | コミュニケーション研究室

被害者匿名の裁判は人権尊重と言えるのか

高井潔司

 私の大学の授業の一つで「メディアと人権」という科目がある。この授業ではメディアが人権問題をどう報じているか、というよりも、むしろメディアが引き起こす人権問題を取り扱っている。メディアは日々、事件、事故を大きく報じているが、常に表現(報道)の自由と人権の衝突の中で進められている。報道の仕方、とりわけどこまで報じるかによって、報じられる側の人権、プライバシーを侵しかねないという問題を、常に抱えている。中でも「実名」の扱いが極めて重要かつ微妙、敏感である。

 日本の総合紙は「実名」報道の原則にしている。加害者が少年や精神障碍者でその刑事責任を問えない場合、「匿名」報道となるが、それはあくまで例外である。その場合でも、被害者は実名で報道される。教室で、こうした原則を紹介すると、学生たちから「それは不平等だ。被害者の名前を出しながら、加害者を匿名にするなんて、人権を尊重することにならない」という声が上がる。個人情報の保護が叫ばれる昨今、とかく匿名が好まれる風潮にある。

 確かに「匿名」報道にすれば、誰の人権も侵さないかもしれない。が、報道にリアリティ(現実味)がなくなってしまう。「AがBさんを殺害した」という報道でいいなら、真実に迫ろうという記者の取材の意欲も萎えてしまう。読者にとっても、Bさんがどのような人であるかあいまいになれば、かけがえのないその人生を奪われたことの無念さも伝わってこないだろう。名前はその人がその人である証しであり、生身の人間が生きてきた人生を示す最も基本的な情報である。その情報から出発して、それぞれ人の人生が描かれる。

 入所者19人が殺害された相模原市の障碍者施設「津久井やまゆり園」の事件から1年を経て、新聞、テレビでは様々な報道がなされた。この事件では、遺族の希望で、事件の発生時から警察発表でも実名が伏されたため、被害者についてはほとんど報道がなかった。そして1年を迎えた報道の中で、私が最も驚いたのは、横浜地裁がこの事件について被害者を匿名にして公判を開くというニュースだった。

 刑事訴訟法では、氏名、住所など「被害者特定事項」が明らかになることで被害者や遺族らの「名誉または社会生活の平穏が著しく害されるおそれがあると認められる場合」は、裁判所は公開の法廷で氏名などを伏せることができるという(朝日新聞23日付朝刊1面)。しかし、この事件の裁判で被害者の名前が出ることが、どう名誉を傷つけられるというのだろうか。また社会生活の平穏がどう害されるのか、理解できない。事件直後なら様々なメディアが取材に殺到するメディアスクラムも発生するかも知れないが、事件から1年を経過し、そうした事態は考えられない。

 こういう言い方をすると、遺族の方々に酷かもしれないが、被害者の名前を伏せることは、未だに「被害者は周りを不幸にする」、「意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだ」と、反省の姿勢のない加害者の植松聖被告の犯行動機を肯定することにつながるのではないかと、私は考える。「こんな連中は生きている意味がない」と被告は口にしていたようだが、だからこそ、被害者の人びとは障碍を持ちながらも、こう生きてきた、そういうかけがえのない命を、あなたは奪ったのだと告発しなければ、被害者の魂は浮かばれないのではないか。

 NHKは、関係者を取材して歩き、19人の被害者の1人ひとりの人生を明らかにしよう試みている。匿名発表だから、なかなか遺族から取材できないが、施設の関係者などから、断片的だが、この人はこんな人物だった、こんな生活を送っていたという情報を聞き出し、その情報を被害者ごとに整理し、インターネット「19のいのち」で公開している。遺族が匿名を望んでいる以上を、無理やり実名で報道することはないが、遺族を説得し、犠牲者たちの「生きた証」を明らかにしていくのが、報道機関の役割ではないか。

 人権、個人情報の尊重が叫ばれる中、こうした原稿を書くのも、いろいろ神経を配り、四苦八苦する。しかし、私には以下のような実体験があり、どうしても書かないわけにはいかない思いがある。

 私には、生まれたばかりのころ脳性麻痺を患い、左半身不随の叔父がいた。言葉も不自由で、力を込め、振り絞るようにしてやっと声をだしていた。祖母は介護に疲れ果て、新興宗教を渡り歩いていたが、叔父の方は不自由な体にもかかわらず、夜間高校にも通ったし、自立するために紙芝居の下絵書きのアルバイトもしていた。小学校高学年まで同居していたので、叔父は純真な人でよく遊び相手になってくれたし、相談相手にもなってくれた。物心がつくようになって、私は叔父が障碍にもかかわらず、懸命に生きていることに気づき、尊敬すべき人と思っていた。叔父が夏休みの宿題を手伝ってくれて、休みの最後の日、一枚の絵を完成した。でも叔父があんまり上手に書くものだから、宿題を受け取った先生から冷たい目で見られたことをいまでも思い出す。

 私にとってショックな出来事だったのは、叔父が外出する時、近所の子供たちから「馬鹿」「キチガイ」と石を投げつけられるのを目撃したことだった。確かに片足が麻痺しているのだから、足を引きずり、バタバタした奇妙な歩き方だったが、馬鹿呼ばわりされる筋合いはない。「これはうちの叔父さんだ。馬鹿でも、キチガイでもない。止めろ」と、私は思わず叫んでしまった。

 1950年代、60年代、障碍者に対する差別意識は、いま以上に激しかった。叔父にとって、そんな差別、偏見、いじめはいつものことだったのかもしれない。そんなことがあっても、動ける間はよく外出していた。神戸市で当時、盛んだった「10円詩集」運動にも積極的に参加し、編集者の一員にもなっていた。

 晩年、祖母も高齢化して世話ができなくなり、叔父自身も体力がなくなり、施設に入り、20年ほど前、60歳過ぎで亡くなった。懸命に生きた人生に、私はいまでも敬意を抱いている。

 障碍者であれ、非障碍者であれ、それぞれの人生があり、それぞれの条件の中で、懸命に生きている。障碍者の方がむしろその障害と闘いながら懸命に生きているかもしれない。五体満足だと思っていても、完璧な人間などおらず、どこかに問題を抱えていて、悩みながら、日々それに様々な形で格闘している。普通の、平均的な人間などおらず、それぞれ違った人生を生きている。だからかけがえのない人生である。それがわからない植草被告自身が、そうした障碍を抱えていたと言えるのではないか。


高井潔司
 桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授
 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て現職。