月刊ライフビジョン | コミュニケーション研究室

19世紀に帰るプーチンのウクライナ侵攻

高井 絜司

 ロシア軍が2月25日、ウクライナへの全面的な侵攻を開始した。冷戦体制の復活は言うまでもなく、第3次世界大戦につながりかねない暴挙であり、対岸の火事として傍観しているわけにはいかない。実は今月号のテーマとして、新聞のネット化の行方を考えていた。しかし、情勢がここまで進んでは新聞の将来など悠長に論じている場合ではない。

 といって、ロシア・ウクライナ問題の専門家でもない私に今後の進展を解説したり、対応策を考える能力もない。ただ、指摘しておきたいのは、ロシアの暴挙を批判するだけでなく、作り出されてしまった現状をしっかり見据え、どう着地点を見出すのかという外交的な努力が必要であり、さらに日本にとっては同じような暴挙が東アジアで起こらないよう戦略の見直しが必要となるという点だ。対岸の火事ではないという点では、ロシアと同じ強権体制の中国の脅威がすぐ思い浮かぶ。だがしかし、同じ強権体制の国とはいえ、置かれている状況は大きく異なる。その点をしっかり認識した上での戦略の見直しが必要であろう。

 実はここ数か月、ウクライナ問題というか、プーチン問題を取り上げなければと考えていた。日本の国際報道では、身近な中国の脅威ばかりが焦点となり、国際的な平和維持という点ではより危険なロシアの動きがほとんど報じられてこなかった。この点を指摘しなければと考えていた。だが、当面のコロナ感染の拡大問題などに追われ、今回の急進展に追い付けない結果となってしまった。

 本ジャーナルを主宰する奥井礼喜さんは、先週のRO通信No.1447で「米露の情報戦が激しくて、なにが本当の事実なのか。報道を見ているだけでは容易に納得できない。ロシアがウクライナ国境に軍を配置しているのは疑いないが、アメリカは、『ロシアは侵攻するぞ』と大声疾呼する。そうであれば、もっと外交交渉に熱を入れるべきである。危機を煽ることにばかり熱が入っているから、米国発情報の真偽、狙いを考えざるをえない。アメリカは、全面的にロシアが無法者だという前提でキャンペーンを張っている。それで、プーチン氏が引き下がれば上等だ。しかし、アメリカ的情報戦がロシアを追い込んで翻意させるよりも、危機なるものをますます拡大させているのではないか。アメリカの対応が、プーチン戦略に対して有効に作用しているかどうかを考えると、おおいに疑問である」と指摘し、「情報戦よりも問題解決提案の競争を」と呼びかけていた。

 まさに奥井さんの指摘通り、アメリカは情報戦にかまけて、問題解決のおとしどころを見極めず、ロシアの進撃をなす術もなく許してしまった。アメリカとしては、情報戦による警告でロシアが引き下がると過信していたのだろう。アメリカの情報は正しかったが、まさかプーチンが国連安全保障理事国という責任大国にあるまじき、19世紀的な侵略の手法を取るとまでは予想しなかったのだろう。プーチンを買い被り過ぎたとも言える。

 昨年、コロナ禍の中、私は購入したものの書棚に放置したままの本を何冊か取り出し、読み入った。その中に故米原万里さんの『打ちのめされるようなすごい本』(文芸春秋社)がある。亡くなってもう15年以上経つ作家兼翻訳家の書評集だが、いま読んでも興味深い、それこそ“打ちのめされるようなすごい本”が歯切れのよい文体で紹介されている。ことにロシア語の通訳として活躍されてきたので、ロシア関係の本がいくつも紹介されている。北方領土問題に関してこんな文章があった。

 「ソビエト期の歴史や地理の教科書は、ツァリー時代の支配層による自国民搾取について罪悪視するものの、ロシア帝国の領土拡張については限りなく絶賛に近い形で擁護していた。中央アジアのイスラム圏もコーカサス諸国もバルト諸国もシベリア・極東の諸民族もすすんでロシアに併合され、そのおかげで発展したかのような叙述(ソビエト崩壊後の教科書でもプーチンの発言でもこの傾向は変わらない――米原)に接するたびに、共産主義よりも民族主義の方がはるかに強力に人々の心を支配している、と思ったものだ。長瀬隆著『日露領土紛争の根源』(草思社)を読んで、ロシア人の領土への執着が、十月革命よりはるか以前から脈々と続いてきた国家による情報操作の成果であると思えてきた」(ちなみに米原さんは小中学校を在プラハ・ソビエト学校で学んだ)

 プーチンさんとお友達関係にあると称していた元首相はこの本は読んでいないだろうな。

 それはともかく、米原さんの書評に刺激を受け、私はその後、以下のプーチン・ロシアを描いた最近のいくつかの研究書を読んでみた。

  • チャールズ・クローヴァー(元フィナンシャルタイムス・支局長)著『ユーラシアニズム』(NHK出版)
  • フィオナ・ヒル、クリフォード・C・ガディ(米ブルッキングス研究員の共著)『プーチンの世界――「皇帝」になった工作員』(新潮社)
  • ティモシー・スナイダー(米イェール大学教授)著『自由なき世界――フェイクデモクラシーと新たなファシズム』

 いずれも邦訳で500ページを超える大著である。とてもその要約をお伝えできるほどの能力も紙幅も私にないので、さわりだけ紹介しよう。

 最初の書はプーチンの思考、戦略に大きな影響力を持つ歴史家や評論家を紹介しながら、「ユーラシアニズム」の思想を明らかにしている。ソ連崩壊を目撃し、その後のロシアの混迷と衰退を体験し、ロシアの復権に賭けるプーチンは、「ユーラシアニズム」の体現者であり、実行者だという。それは社会主義ソ連の復活でも、ロシアを除く東ヨーロッバ諸国が目指すリベラリズムでもない。彼らの思考を筆者はこう解説する。

 「ロシアの救済は民主主義的リベラリズムの流れを逆流させて、抑圧的な中央集権的統治を復活させ、帝政ロシアの概念をありがたがる愛国者たちの政権の復権――ただし、これは帝政ロシア風とはいえ民族的かつ宗教的に多様で、しかしながら明らかにロシア的で非西欧的な地政学に則った地域、すなわち『ユーラシア』に結集できる者たちの復権である」

 プーチン自身の言葉では「ロシアの大いなる使命は、文明を統一し、結合することである。このタイプの国家文明に、民族的少数派というものは存在しない。『友か、敵か』という定義は、文化を共有し、価値観を分かち合っているかが分岐点となる。この文明のアイデンティティは、ロシアの文化的優位護持を基礎にしており、その優位を担う者はエスニックなロシア人に限定されるのではなく、国籍に関わりなく、そのアイデンティティを護持している者すべてに共有される」(2012年1月23日「独立新聞」への寄稿)という。ウクライナを自らの勢力圏と位置づけるプーチンにとって、ウクライナはロシアの文化的優位を護持する同胞という事になるのだろう。だが、ウクライナ国民にとって、それは勝手な押し付け、強要である。

 二番目の書は、プーチンがKGBの工作員から政界へ登用され、大統領就任を経て、「ユーラシアニズム」を体現し、その実行者へと昇りつめる過程を描く。巻末の畔蒜泰助・東京財団研究員の「日本の読者が本書から学び取るべき最重要ポイントは『プーチンは単なる戦術家ではない。彼は戦略的思考に長け、西側諸国のリーダーたちよりも高い実行力を持っている』ということだろう。プーチンの大きな戦略目標はロシアの国益を守ること、戦略家プーチンは国家としてのロシアの地位の復活、強化、保護を念頭に、常に有事に備えている」という解説が、今となってはずしんと響いてくる。

 三番目の書は、プーチンがクリミア併合を舞台に繰り広げた情報戦と武力行使を交えた「ハイブリッド戦略」を丹念に再現している。プーチンのフェイク情報を駆使した戦略はすでに実証済みである。ハイブリッド戦略に長けたプーチンに、情報戦で応酬してもなかなか勝利は難しい。とくにアメリカが事前に武力介入しないと宣言したことは致命的だ。

 冷戦の敗者からユーラシアニズムの体現者となったプーチンにとって、NATOのウクライナへの拡大は絶対阻止しなければならない緊急かつ最大の課題だった。「他に選択の余地はなかった」という彼は、ある面、被害妄想的状態に追い込まれた本音の吐露ではないか。そこに何らかの事態解決の道もあったのだろうが、アメリカは彼を追い詰めるだけの愚策しか出せなかった。

 最後に指摘しておきたいのは、同じ強権体制にある中国の今後の動向だ。ロシアがもしこの侵略作戦に成功すれば中国も同じ挙にでるのではと懸念する声がある。その心配の声はよく理解できるが、中国は冷戦の敗北者ではない。むしろ冷戦後のグローバル経済の波に乗って経済大国への道を歩んできた。冷戦終結の受益者でもある。もちろん、台湾問題を含めロシア同様、領土、主権の回復を目指している。が、それを軍事的に実現することが現在の経済的繁栄を損なうことは十分承知している。台湾や尖閣諸島へのアプローチはあくまで領土、主権の回復の主張を捨てていないのだという国内向けのアピールに過ぎない。しかし、それに過剰に反応したアメリカを中心とする関係国の経済を含めた最近の中国封じ込め政策は、プーチン同様に、中国の「選択の余地」を奪い、最悪の事態に追い詰めることもありうる。

 中国も今回のロシアの侵略行為に対して、国際法違反として明確に反対する立場を表明すべきだろう。そうでなければ関係国の封じ込め強化を促すことになり、東アジアでも緊張を深めることにつながる。ウクライナと台湾は国際的に全く異なった環境にある。ウクライナは主権、領土を備えた明確な国家であり、それに対する軍事力の行使は明らかな侵略である。もしチベットや新疆ウィグル自治区にアメリカが軍事介入したら、中国は当然、内政干渉、侵略行為として反対するだろう。しかし、台湾問題は日本もアメリカも「一つの中国」という中国の主張に理解を与えている。日米は武力による現状に反対しているのだ。

 と同時に日本として、中国にどう向き合うのか。中国と密接な経済関係を有する日本外交は、アメリカに追随するだけでは済まないことを改めて指摘したい。しっかり、自国の置かれた位置を踏まえ、自国の戦略を持つ必要がある。プーチンの暴挙から引き出すべき教訓はここにある。


高井潔司  メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。