週刊RO通信

三菱電機労使は、「自立人間」を思い出せ

NO.1439

 わたしには、2つの故郷がある。18歳まで過ごした山陰の海に抱かれたような町、重く垂れこめた曇り空と荒れる日本海をいつも思い出す。晴天の心地よさより、うつうつとした光景が浮かぶのは自身の性質と重なるからだ。

 もう1つは、19年半在職した三菱電機である。学び舎での12年よりも、たくさんの勉強をした。生活の糧を得つつ、勉強できて、容易には得難い友人知己がたくさんできた。組合活動17年だから社業一筋ではないが、三菱電機というコミュニティについての思いは、脈々いまに続いている。

 いちばんの達成感は、まだ世間的関心が薄い1970年から、組合が、高齢化社会を与件として中高年層対策をまとめあげ、主として研修活動で、勤め人という領域に止まらず、人間観を実践する活動を作り上げたことだ。

 最初の研修参加者は、50代前後が多かった。青春時代、兵士であった人たちは、骨の髄まで上意下達の習慣が染みついている。組合なんて不逞の輩だと思う人も少なくなかった。仲間で勉強し、あれこれ考える中から、「いったい、わしの人生はなんなのか!」という、哲学的段階へ踏み入れた人がじわじわと登場してきたときの感激は忘れられない。

 「男は日に三言」(しゃべるだけ)世代である。グループ・ミーティングで自分の考えを話す。沈黙は金なんかじゃない。話し合いが佳境に入ると、あちらでもこちらでも弾ける笑いの渦である。

 当初は男性が多かった。ウーマンリブの闘士・小沢遼子さんに一席ぶってもらった。生意気なという反発が来るかと構えていたが、とんでもない。いままでの堅いオツムが一挙に柔らかくなったのか、「カミさんの気持ちがわかった」と感想が出されて、家族をテーマとしたミーティングは、フェミニズム集会の趣きを呈した。支部研修での講師を務めた人も少なくなかった。

 主催者として心がけたのは、「話す・聞く・考える」ことの愉快をおおいに感得してもらいたい。それが体験的にわかれば、「コミュニケーションとは何ぞや」というしゃっちょこばる講義は不要だ。縦社会に順応することが第一だと信じていた人々が、自然に横のつながりの真価に気づく。

 集団には秩序が必要だが、縦社会的秩序優先主義では、熱いコミュニケーションはできない。自身が、自身の考えを引っ提げて、集団のために有益な発言をする。発言して、仲間に認められる嬉しさは、人間的成長に深くかかわっている。お互いの理解と納得を作り上げたとき、連帯感が膨らんでいる。

 当時の人事マンは、頭脳明晰で弁も立つし政策通だった。「三菱電機の人事は、日本(企業)の人事だ」という他社人事マンの称賛もたびたび聞いた。なによりも彼らは、人を見る眼を磨いていた。つねに人の中へ入って、人の話を傾聴し、おもねず飾らず話し合う。労使交渉の決着をつけるのは、いずれが従業員(組合員)の気持ちを掴んでいるかにあった。

 人事部内では、以前から内部討論をくり返していたが、組合が中高年層対策の実践では先行した。かれらは、国内唯一の組合の取り組みを注目していたから、研修参加者がポジティブに変わっていく姿を見落とさなかった。組合が、労使共同でおこないたい事業を考案し、働きかけて、労使中高年問題研究委員会設置を提唱すると諸手を挙げて賛成してくれた。

 同委員会は1年半開催して報告書をまとめあげた。労使で作った果実は、人は育つもので、人が育つから会社が育つ。突き詰めれば「組織力=Σ個人力」である。頭数で人を見てはならない、人は出番を待っている、人を大事にするために、「活用の論理」という言葉を当てた。

 では、どんな人になってほしいのか。上意下達に沈没する「会社人間」ではいけない。これを「自立人間」と名付けた。いわく、① 自分の意見・主張をもっている、② 計画性・先見性をもち自発的に行動しうる、③ 主張・行動に責任をもてる、④ 自己と周囲との積極的調整ができる――である。

 わたしは82年に退職したが、少なくとも80年代いっぱいは、労使ともに「自立人間」をメルクマールとしていたはずだ。ここしばらく、わが第2の故郷は不祥事でお騒がせしている。おそらく、日本企業に先鞭をつけた、誇り高き「自立人間」論を、どこかで倉庫に放り込んでしまったのだろう。労使が、「自立人間」の熱い志を顧みてくれることを、心から期待する。