香港の選挙では、立候補するには事前審査で愛国者と認められねばならない。しかるべく審査する機関があるし、愛国者の基準が必要になる。カチンカチンの感で面白くない。
日本では、敗戦までは、全員愛国者でなければならなかった。愛国的でないと売国奴とか国賊だと指弾された。選挙に出なくても、町会の顔役の機嫌を損ねれば国賊であった。
愛国者には、なにやら逆らいにくい雰囲気があるが、当時具体的な基準があったのではなく、お国の指示に素直かつスピーディに対応することである。
こんにちでは、新聞が挙って中国的愛国者論を批判している。
ただし、油断できないのは、愛国者という言葉は使わなくても、たとえば、自粛と言われれば、自分の意思で慎重に行動するのではなく、自粛に全面的に従わないと、村八分にされるような雰囲気がある。
つまり、暗黙の圧力が人々の行動を支配する。民主主義国で、人権尊重を前提していても、愛国者=国家主義者と直結する気配がある。
わたしは、民主主義における愛国者は、その前に「憂国の人」だと思う。聖書流でいけば、社会が腐らないように、「地の塩」たろうとする人である。社会を構成している1人として、誰もがいきいきと生活できるために、自分なりに参加・参画する。
愛国者というようなご大層な言葉を使わずに、円転滑脱に動く社会をめざしたいものだ。