週刊RO通信

民主主義サミットの反普遍性

NO.1435

 バイデン氏提唱による「Summit for Democracy」(民主主義サミット)が、オンラインで、12月9日から10日にかけて開催される。招待されて参加するのは110か国・地域だという。

 世界中で、中央集権化が目立ち、法の支配が弱体化しており、ジャーナリストや市民社会への抑圧を見過ごせない。テーマは、① 権威主義に対する防御、② 腐敗との闘い、③ 人権尊重の推進――とする。

 中国・ロシアは招待せず、人権に問題ありのインド・フィリピンは招く。また、権威主義で内外に批判をくらっているポーランドも参加する。台湾を招待したので、中国が憤っているとの報道もある。バイデン流、民主主義陣営による中ロ包囲網の言論版だということは、外交の素人にも直ぐにわかる。

 今回の小論は、「民主主義のためのサミット」について、本気で開催するのであれば、必ずオツムに叩き込んでおくべき、いくつかの視点を指摘したい。

 第一に、権威主義の問題である。民主主義制度の国であっても、いや、民主主義制度の国において権威主義が台頭するのは非常に具合が悪い。権威主義とは、もっぱら権威に価値を求める。ほとんど国家主義と同義語である。

 民主主義は主権在民である。人々が国家の権威に対して自分を貶めて、権威ゆえにのっけから服従せねばならないのは本末転倒である。

 わが政治家諸君は「人々に寄り添う」と盛んに語る。言葉は柔らかいが、政治家が特権意識を持っている見本である。選挙では、「やらせてください」と哀願しておきながら、当選すればケロっと忘れる。

 大方は次の選挙のために「常在戦場」である。なんのことはない、人々のための政治をするのが目的なのに、選挙の合間に政治をする。選挙(手段)で当選する目的は優れた政治をすることだが、議員であることが目的になっている。「寄り添う」など恥ずかしいではないか。

 第二に、腐敗との闘いである。社会通念では、菅・安倍内閣の期間は、隠しようもない腐敗である。モリ・カケ・サクラはもちろんだが、自分の身を守るために、さらに主権者の公僕たる官僚を手駒として駆使して、議会を空転させた。その次は、数の力で押し切る。

 言葉を空虚にさせ、権力を乱用した。たまたま、首相は岸田氏に交代しているが、岸田氏自身が、元・前首相時代の後始末ができない。腐敗を看過している政治家が腐敗との闘いを語るのは、笑えないポンチ絵だ。腐敗を放置することが、腐敗に寛容な国民を培養し、政治的悪習慣を継続させる。

 第三に、人権尊重の推進である。人権の尊重こそが民主主義の出発点である。選挙の投票率がいかにも低い。ジャーナリズムは、野党が、政権に批判的な人々を投票所へ誘う力が弱かったと総括する。もちろん、与野党対決のチャンバラ視点としてはその通りである。

 しかし、投票率が低い=政治に背中を向ける人々が多いことの最大責任は、まず与党政治(家)がもっとも批判の対象とされねばならない。投票率が低いほうが与党に好都合という事実ほど、人権・主権在民が無視されている事例はない。これではわが民主主義は、民主主義以前とさして変わらない。

 国内問題は、このくらいにして——話を戻す。「民主主義のためのサミット」が本気なのであれば、バイデン氏ご招待ではなく、国際連合を舞台として展開するのが筋道である。バイデン氏のサングラスに適う国・地域を集めるのであれば、すでに弁別(差別)であり、仲良しごっこである。

 このままでは、すでに冷戦復活といわれている事態を、より悪化させる方向へ進む。そもそも、人権尊重というなら、人権に人種・民族・国家の区別は存在しない。民主主義は、国家を超える。したがって普遍的価値なのだ。

 人権=民主主義=普遍的価値である。米国第一主義を民主主義の美名にくるんで、世界分断を進めるのであれば、トランプ流フェイクと、いずれが悪質か比較できない程度と言わざるをえない。しかも昔から、米国流外交が砲艦・恫喝的である事実は消しようもない。

 いかに民主主義を標榜しようとも、内に民主主義・外に恫喝外交の二刀流であるかぎり、本来、普遍的価値論をぶつ資格はない。民主主義を国際外交の便法に使うのは、民主主義を貶めると言わざるを得ない。