論 考

あいさつ民族としての日本人

 遠い20代のころ、組合役員で専従したとき、尊敬する先輩から、「挨拶の上手な人間にはなるなよ」と言われた。なるほど、その通りだ。

 地域で組合関係の会合に出ると、言葉は滑らかだが、当たり障りのない内容ばかりで、いい話を聞いたという体験がほぼなかった。もちろん、いい人たちばかりなのであるが——

 ところが、実際は、聞くほうも当り障りがないのを好むらしく、テレビの朝ドラや大河ドラマのシーンを話すと、みなさんが喜んでいる。もちろん、それをネタとして、「おや」「まあ」「へえ」と感じ入るような、「なにか」があればよろしいのだが、ただ話をなぞっているだけだから、つまらない。

 『草枕』の、――智に働けば角が立つ、情に掉させば流される――という言葉の通りである。漱石さんは、正しくは理性的であれという考えである。

 とつおいつ勉強していると、近代以前から日本人的気風としては、ムラの結束第一、波風立てないことをもって上等とする文化が支配している。

 かつては、村八分がしばしば話題になった。いまは、あちこちのコミュニティで、KYというのがその機能を果たしているのではないかな。

 という次第で、とかくこの世は住みにくいと漱石さんはおっしゃった。でも、こういうのは、学校の勉強では容易に学べないのである。