論 考

立民党首選の注目点

 立憲民主党の党首選が始まる。立候補者は4人、失礼顧みず言うが、いずれも目下は、枝野氏と比較するだけでも知名度や力量感が薄い。

 いままで報道での露出が少ないのだから、仕方がない。党員、パートナーの皆さんも、一般の人々と比べて、よく知っているというほどではなかろう。

 国会議員が、もっとも4人を知る立場にあるはずだから、選挙結果の如何にかかわらず、諸氏がいかなる選択をするか。わたしは、これを注目する。

 知名度、力量感が薄いのは、一方で未知への招待でもある。論理的ではないが、感性的には、それなりに面白い。

 そこで選挙戦でのポイントの1つは、4候補者が、どのような視野を持ち、いかなる地平から政治をめざしているか。

 もちろん、立民の党首選挙だから、党勢拡大が当面の最大課題ではあるが、その前に、政治家としてのキャパシティが問われる。

 アメリカでは、バイデン民主党とトランプ共和党が陰陽熾烈な政争を展開している。外からは、民主党がデモクラシーの擁護者だと見られるが、必ずしもそうとは言い切れない。

 それは両者が展開している建前の話であって、現実に、民主党は働く階層を十分に掌握できていない。人種問題が絡んでいるから単純には紐解けないけれども、かつてのように、民主党が働く人の支持を得られるかどうか。

 ここで働く人というのは、労働組合組織ではない。市民としての働く人の共感を獲得できるかどうかだ。

 立民の場合、連合=働く人と片付けないほうがよろしい。今回の衆議院議員選挙でも、連合傘下の参加の働く人が、連合と同じ考え方をしていたかどうかは、極めて疑問がある。わたしが現役当時の組合とは、大きく異なっている。

 率直に言って、いまの連合が選挙において、組合員をがっちり掌握しているとは考えられない。もし、連合がそうであれば、立民・国民の諍いがあったとしても、もっと野党は伸びたはずだ。なにしろ圧倒的に投票率が低い。

 立民の党勢拡大は、投票に行く人を増やすことに通ずるメッセージを発せられるかにかかっている。政治的無関心に一石を投じられるか。

 その意味において、党首をめざす人の政治家としてのキャパシティが注目されるわけだ。