週刊RO通信

衆議院議員選挙戦の感想

NO.1431

 第49回衆議院議員選挙は、10月19日公示・31日投開票の日程でおこなわれた。今号は選挙期間を通して頭を離れなかったことを書きたい。それが選挙結果の全体的評価をするためにも必要であり、とくに、過去・現在・未来へと続く日本の政治を考えるために大切だと思う。

 朝日新聞は公示日の社説で、「1強」が生んだ弊害を正す時であると主張した。読売新聞は同日、政策実現の確かな道筋を論じよと主張した。それぞれ当然の主張である。選挙は、国会の議席を按分するのだから、しっかりした政策を掲げる政党と国政を託せる人物を選ばねばならない。

 多くの人々が、安倍・菅政治9年間の性質について鮮明に記憶しているだろう。最大の特徴は、政策実現の確かな道筋を歩んだというよりも、中枢政治家を筆頭に不祥事が重なり、言論の府たらねばならない国会が半分以上の期間、実質空転した苦い記憶である。しかも未解決の問題が多い。

 国会での質疑応答がかみ合わない。語るべきことを語らず、制限がある時間を意図的に浪費するような語りが多かった。質問に正面から答えないのは、本当のことを隠しているのである。語らないことは、嘘をついているのと等しい。その意図において、人々の信頼を裏切っている。

 常識的に信じられないような、官僚の取り繕いが目立った。昔は、「政治家はダメでも、官僚がしっかりしている」という人が少なくなかったが、安倍・菅政治を観察した人々からみれば、とても信じられないだろう。

 選挙戦で、政策を語るといっても、未発売の商品の広告宣伝と実体は変わらない。「おいしい話に気をつけろ」というのが、広告宣伝に対する庶民的知恵である。語る人に悪気がなく、善意から出た言葉であるとしても、現実にそのまま実現できるわけでもない。

 そこで、選挙の洗礼をくぐってきた政治家が、国会で丁々発止の議論を展開するのであるが、安倍・菅政治においては、国会にせよ、記者会見にせよ、中身のあるところを出さないのだから、人々が信頼できるわけがない。また、無理が通れば道理が引っ込む事態は、与党があまりにも多くの議席を得たからである。「1強」が生んだ弊害を正す時という朝日社説は、今回選挙の核心的特徴をとらえていたというべきである。

 公示翌日、読売社説は、将来への責任感が問われると主張した。見方によれば朝日社説と重なるが、中身は与党が頼りになるのに比べて、野党は頼りになりにくいという程度の流れである。しかし、前述のような事実があって、頼りになる? 自民党の応援をするのであれば、まずは、安倍・菅政治における反省を明確にせよと指摘するのがジャーナリズム精神であろう。

 新聞批判が目的ではないが、岸田氏が自民党総裁選挙での発言をどんどん後退させている事実がたくさん出ている。それらを思えば、自民党機関紙的論調を重ねるのは、世論のミスリードに通ずるのではないか。

 新聞は各党の公約を、たとえば、コロナ、経済、外交——という項目で括って比較する。人々が項目から全体を考えることも意味があるが、選挙公約(政策)はかなり多岐にわたる。実際は国会論議をしなければ公約即実行とはいかない。もう少し国の針路を提起するべきだ。ただし、世界に輝くニッポンという調子ではなく、歴史的位置づけを明確にした総論がほしい。

 とりわけ日米同盟を絶対視しているから、国際的に見た日本の位置がとんとわからない。いまの日本は、日本国憲法の上に日米同盟がある。その枠組みで、単純に自国防衛の軍備強化にばかり論議が進むのは、木を見て森を見ないのたとえ、本当に独立国なのか、疑問が湧く。国政に関与する国会議員選挙であるが、大きな枠組みでの提唱が皆無なのは遺憾である。せっかくの高邁にして凛とした日本国憲法を使いこなすだけの意気地も能力もない。

 日米同盟よりももっと上の大きな地平から国政を論ずる政治家が出ないかぎり、日本は先進国ではない。だから、人々が自分自身の国をとらえあぐねている。ちゃちな愛国心、国家主義に沈没するのではなく、世界の混沌をたくましく泳ぎ抜くための、活力としての、大構想がほしい。

 狭い日本で後ろ向きの権力争奪戦を繰り返すばかりでは、日本という国はますます小さくなるばかりである。政治らしい政治をめざしたい。