月刊ライフビジョン | 論 壇

大風呂敷の「新しい資本主義」

奥井 禮喜
政権党に信用――政治的慣性

 政権党に相当な失点があっても、人々はおいそれとは見放さない。1960年代までは、政治家はダメでも、官僚がしっかりしている」と発言する人が少なくなかった。官僚がしっかりしている、官僚が行政を担っている、政治家が行政を壊すことはできないという、いまから思えば、神話みたいである。

 1955年の保守合同以来、自民党は大方の間、政権の座にあった。しばしば汚職など不祥事が問題になった。それでも信用が根本から揺らぐという事態にはならなかった。人々が鷹揚だともいえるが、何よりも政権党たることが社会における政治的「慣性」を作り出している。

 80年代まで、政治家の発言はいまよりも慎重であった。たとえば、首相も経験し、長く内閣の中枢を占めている麻生氏は、失言・暴言・放言がなければ麻生氏にあらずの感である。昔は、舌禍問題を起こせば早晩檜舞台から消えたが、最近は居残ってどんどん失言記録を更新する。信用失墜は当たり前だ。

 長期政権などあり得ないと見られていた安倍氏が首相在任8年間の記録を作った。当然、官僚群のサポートがあってのことだ。すでに表面化したごとく、安倍氏は、父親の晋太郎氏が「言い訳させたら天才的」と語ったように、相当なちゃらんぽらんであるが、なにがなんでも権力の座に居続けた。

 安倍・菅9年間の政治の復活を希望する人は少ないだろう。実際、語るべき成果らしきものがない。熱狂的人気があったのでもない。いわゆる瞬間芸タイプで、言葉を飾るが中味がない。地球儀を俯瞰する外交、積極的平和主義、アンダーコントロール、(対ロ交渉で見通しが立つのか問われると)「わたしがやらなくていのですか」といなしたが、中身が「やるやる」詐偽と似た結果になった。

 安倍流言論術は、よくいえば、「希望と政策の混然一体」であって、人々に期待を持たせ、その気にさせる。しかし、通信販売みたいに遠からず手に入るわけではない。人々が気づくにはずいぶんタイムラグがあって、後の祭りである。

 安倍氏は、政治を説得術だとは考えなかった。政治家として遺産を作ろうというほどの熱がない。一方、政権維持には異常に熱心であった。政権維持が最大眼目であった。政治をおこなうためではなく、選挙勝利こそが本願である。選挙は宣伝戦である。いわば広告代理店的技術がふんだんに駆使された。

 すなわち、主義主張や商品の効能を広めて選挙に勝利する。当然ながらおおげさになる。誇大宣伝・誇大広告、見かけはよろしいが中味が伴わない。羊頭狗肉の典型で、見事、8年間の長期政権を担当して遺産とした。

 明治5年ごろに、advertizmentの訳語として、広告が登場した。当時の広告・宣伝は、こんにちとは異なって、人々の厳しい視線にさらされた。だから、自分を吹聴する政治家は広告屋だと卑下されたものだ。

政治は、言葉の意味を共有する

 「言い訳の天才」が天下人になるのは理由がある。人々が、様子がよろしい人に欺かれる事例は掃いて捨ててもまた増える。欺く奴がけしからんのは当たり前だ。欺かれる人々は気の毒ではあるが、とても感心できない。他者を信用するのは美徳である。しかし、信用するためには、信用するに足るかどうかを、自分が確かめなければならない。たとえば、美しい言葉、期待できそうな言葉であっても、しっかりと裏付けが必要である。

 政治家が広告屋で、のっけから消費者を欺くつもりだ――と決めつけるつもりはない。政治家が善意であっても、思慮不足であるとか、間違っていることもある。政治家の提案がつねに上等だともいえない。これがリアリズムである。

 政治は、社会的なコミュニケーションである。選挙活動などの演説は、相当丁寧におこなったとしても、発信者・受信者双方に本当の理解が深まることはない。話す人がいて、聞く人がいるのだから、双方に交流が発生するのは事実である。しかし、大方の場合は、感情的共感が中心であって、演説の中身がものごとの理解を深める次元には至らない。

 政治は、言葉である。言葉の意味が理解され、発信者・受信者双方に共有されなければコミュニケーションとは言えない。つまり、面倒くさいものであるが、それを認識しないと、政治は向上しない。真面目な人は、新聞記事を読んで考える。わかったような気がする。わかったのは、書かれた内容がわかったのであって、書かれていないことは理解できない。

 新聞は、事実を伝える。報道・解説・評論の3点セットが新聞の持ち味である。新聞記事は、人が書く。報道は、比較的事実に近いであろうが、解説、評論へと進むほど当り・外れが大きくなる。解説・評論は、書く人の能力に依存する。書く人が相当の知性人であるとしても、それだけでは問題の核心を理解できない。

 たとえば、政府の借金問題である。国の長期債務は973兆円、地方分と合わせると、1,166兆円で、GDPの2.2倍である。政府の国債発行は、政府の活動から生まれた赤字の穴埋めである。いまは、コロナ問題の被害が大きく、全政党がバラマキ政策を訴える。これは、緊急避難で仕方がない。しかし、バラマキ額を競って、人々の支持を得ようとするのは正しい問題提起ではない。

 安倍氏は、政府がいくら国債を発行しても問題なしと演説して漫遊した。国債は日銀が引き受ける。政府と日銀は、親会社・子会社の関係だから、借金はチャラになると、まことに都合がよろしい。これは、かなり多くの人々が信用している。というよりも信用するほうがラクだからである。なにしろ、大方の人々は借金に苦労している。政府と日銀の間では、そんな問題がないと、元首相が大見得切るのだから、演説に拍手が多いのは当たり前だ。

 しかし、格別の勉強していなくても、常識を使えば、こんな奇妙な話はない。国債を発行しても、借金ではないとすれば、もちろんありがたい。わが国は1975年から国債増発で、財政再建が最大の悩みである。まず、財政再建という概念が消失する。そこで、それが本当であれば、今後、人々は税金を納める必要がなくなる。さらにいえば、どなた様も汗水たらして低賃金を手にする必要もなくなる。新聞に本問題の指摘がいくつか出たが、これだけの大問題なのに、1面トップには登場しない。

「新しい資本主義」とは何か?

 言葉だけが先走りして、多くの問題が片付くという錯覚をもたらしたのが、「新しい資本主義」なる言葉である。岸田氏の所信表明演説によれば、これが岸田政治の柱である。新聞は、「分配か成長か」で、自民と立憲が競い合うという調子であるが、このくらい人をバカにしたコピーはない。

 新しい資本主義と大見得切るのであれば、文字通り新しい資本主義の中身を提起しなければならない。所信表明で並べたのは、成長と分配の好循環を作るとか、コロナ後の新しい社会を開拓するという。成長戦略・分配戦略で並べた項目も、新しいというほどの内容ではない。

 経済はアベノミクスを踏襲する。金融緩和・財政出動・企業の成長戦略の3点である。これに所得再配分を追加した内容であって、成果がなかったアベノミクス踏襲だけではなく、誇大宣伝・誇大広告も踏襲している。これは嫌味ではない。マルクス『資本論』が刊行されたのは、1867年から1894年であるが、以来150余年、マルクス批判だけは重層的に展開されたが、資本主義ファーストの学者から、いまだ『資本論』に匹敵する雄渾な「資本主義論」が出ない。

 1980年代には新古典主義、21世紀には新自由主義などの言葉が登場したが、いずれも供給サイドにおける立論で、新古典・新自由と名前は違うが、いずれも古典的レッセ・フェール(自由放任)をめざしたもので、いわば先祖返りしただけだ。資源・エネルギー問題、環境問題が焦眉の課題となっているのに、それらを与件とした‘新しい資本主義’論すら登場しない。

 雲霞のごとく経済学者がおられるが、なぜそのような不振状態なのか、素人のわたしにはさっぱりわからない。そこへ、岸田氏が大胆に「新しい資本主義」を提起した。失礼顧みず感想を述べる。どうやら、新自由主義には反対らしいから、「アンチ新自由主義」辺りならよろしいが、「新しい資本主義」とぶち上げるのでは、政治家的大風呂敷の無責任というしかない。 

 もちろん、志高く大政治家をめざすのであって、寝食忘れて「新しい資本主義」を開発するならば拍手大喝采、おおいにご活躍を期待する。しかし、最初から「新しい資本主義実現会議」なるものに丸投げするのだから、面白くはない。

 具体的政策をみると、所得再配分と称して、子育て世帯の住宅費・教育費を支援する。看護・介護・幼保育で働く人の所得を増やす。これらの労働者は、エッセンシャルワーカーと持ち上げられる。ところが、全産業労働者月例賃金37.3万円に対して28.8万円だからチープレーバーである。ただし、公的価格引き上げとつながっているから、財源は消費者に回る。そこで視野を広げて、新しい資本主義らしく、福祉社会の構想を与野党で真剣に検討してもらいたい。

 もう1つは賃金を通じた配分論である。賃上げで物価上昇を起こし、デフレ脱却を図るという理屈にも通ずる。安倍内閣の2013年度には、所得拡大促進税制で、賃上げ企業の法人税減税によって賃上げを促進する作戦だったが、官製春闘なる言葉を生んだのが最大の効果であった。

 税で賃上げを押し上げるのは、国庫収入が減少して、国民サービスが減少する側面を持つ。いわば目の前の違いだけで結果は変わらずの、朝三暮四政策である。

 企業の内部留保は475兆円・預金残高259兆円ある。賃金は、2020年平均年収440万円であるが、10年前には464万円あった。この間、米国の賃金は25%上昇、OECD諸国は15~45%上昇である。

 企業が儲けてパイが大きくなればパイを分配するというのが、一貫して企業側の考え方である。パイが小さいから分配が減り、儲からないから賃金を減らすということに通ずる。これでは、賃金による分配が増えない。

 製品の価格は、単純化すると、①「機械設備費+原材料費+光熱費+減価償却費」+②「賃金」+③「利潤」である。①が一定だとすれば、賃金が増えれば利潤が減り、利潤が増えれば賃金が減る。両者は対立する関係にある。賃金による所得配分を増やすためには、利潤と賃金の関係を変えねばならない。賃金が増えないが、利潤は着々積み上がっている。これにメスを入れなければ、賃金は上がらない。賃金は、利潤とは異なって、生身の人間が生きる資金である。賃金は、利潤を作り出すための費用であるから、賃金は利潤に優先するのが当然である。

 また、雇用構造が、正規・非正規に大きく分割されている。安倍内閣は、この明々白々な格差を官僚的テクニックによって正当化した。正規・非正規は妥当であるという方便によって、格差があるのに、格差がないことにした。新自由主義といえば体裁はよろしいが、何がなんでも利潤ファーストを推進したのである。岸田流のアンチ新自由主義が、この問題に対決できるか。

 つまり、働く人の配分を増やすためには、A)利潤よりも賃金ファーストという考え方と、B)雇用における差別をなくす――という2つのコースをめざさねばならない。この課題に取り組まないで、減税で官製春闘を再現するのであれば、岸田流の新しい資本主義は、羊頭狗肉だと批判されるだろう。

 もちろん、賃金決定は、連合はじめ労働組合が気合を入れなければならないし、働く人を支援する野党の力も発揮されなければならない。連合の2022年春闘は、賃上げ定昇込み4%を企画しているらしいが、岸田流大風呂敷に比較すると、いじらしいほどの生真面目さである。組合は、賃上げ⇒デフレ脱却へ大胆に歩んでほしい。何よりも、組合=働く人々の賃上げ意欲が弱いのであれば、働く人が自分自身の問題について関心が弱いことになる。

 デフレ脱却が大事なことをきっちり念頭に置きたい。株価がそこそこなので、経済は好調と考える人が少なくない。しかし、安倍・菅9年間の政治は、財政健全化などまったく無視して、金融市場をゆがめ尽くした。

 少し考えればわかる。家計金融資産が2,000兆円ある。もし、運用利回りが1%に戻れば、家計は20兆円の財を増やす。問題は、いまの政府には、債務の利払いに困難をきたす事態である。前述したように、安倍氏の与太話に浮かれている余裕はない。

 1980年代のバブルに浮かれてのぼせ上り、バブルが弾けて90年代の雇用問題、2008年世界金融危機、11年東日本大震災の大混乱を経て、コロナ襲来と続いた半世紀は、よくもまあ、人々が耐えて来たものだともいえる。しかし、誰が考えても、日本経済は沈没まっしぐらである。善意の発言として「新しい資本主義」を肯定するとしても、安倍・菅9年間のだらけ切った国政運営という大きなマイナスから、再建へ歩むのは容易ではない。

 国の安全を守るために、防衛費を2%に引き上げるという、まるで戦前の軍部のような発言をする政治家が多い。国の安全は、第1に人々の生活をきちんと整えなければならない。国力とは、人々の生活が確立して、誰もがそれぞれの役割を通じて日本国というコミュニティを発展させようとすることだ。

 愛国心を振り回す前に、政治家のみならず、いまの日本には、「これでいいのか!」という真剣真摯な考え方をする人こそが必要だ。


◆ 奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人