週刊RO通信

連合・女性会長体制への期待

NO.1428

 連合は組織人員が約700万人、日本の労働組合の元締めである。先週、連合の新会長に芳野友子氏が選ばれた。政界は岸田総理が初の所信表明をしたばかりである。昔は、経団連会長は財界総理、連合結成以前は組合の全国団体が4つ(総評・同盟・中立・新産別)あったが、労働界トップは労働総理であるという誇りをもって、4団体が鎬(しのぎ)を削った。

 いまも労働界は完全に1本化していないが、連合会長は労働界総理という位置にある。労働界総理に芳野氏が就任した。政界も財界もまだ女性総理が誕生していない。労働界が総理に女性を担いだことは、時代の最先端を行く。候補者選考が手間取って、選考委員会を異例の38回も開催したそうだ。難産であったが、苦労は有意義だ。小さく生んで大きく育てよう。

 前任会長の神津里季生氏は、組合運動の社会的存在感を高めるために非常な苦労をされた。いろいろあったにせよ、女性会長を生み出した意義は、決して小さくない。また、従来の会長は大きな産業別組合出身者であるが、芳野氏はそうではない。これも、従来の慣習からすれば大きな違いである。

 芳野氏を、最大産別であるUIゼンセンの松浦昭彦氏と、官公労最大産別である自治労の川本淳氏が、会長代行として支える。官民統一して作った連合が結成30年を経ても、相変わらず官民の不協和音を奏でているという話を仄聞するが、いわば官民を代表する2人の会長代行が、芳野氏を支えて顔を並べるのだから、2人とも心に期すことがあるはずだ。

 組織は奇妙なもので、人が変わっても簡単に過去のお荷物を下ろせない。組織理論では、組織を変えるにはトップを変えるのが手っ取り早いことになっているが、時代が変わり、人が変わっても、過去からの慣性を変えられない。それが連合30年の陥穽である。本気で再出発するためには、今回の役員選考は、難産しただけあって、なかなか含蓄がある。(わたしは期待する)

 戦後日本の組合の大方は、まず単位組合が結成された。企業別組織だから、どうしても従業員組合の気配が濃厚である。わたしが組合現役当時は、産業別単位で華々しく春闘を展開した。守勢に回った交渉相手から、折に触れて、「うちの組合は会社の組合だよね」と耳元で囁かれたものだ。

 産業別組合の意思決定は各単位組合の調整作業に手間取る。上部団体とはいうものの、産業別組合が旗を振れば単位組合が黙ってついてくるわけではない。もちろん、見方によれば、それも民主的だと言えなくはないが、なかなか「全労働者」が一致結束箱弁当とはいかない。

 連合は、その産別が集まっているわけで、組合の元締めとは言いながらも、産別と単位組合の関係よりも、さらにコンセンサスを作るために腐心する。つまり、連合にせよ、産別にせよ、単位組合に対して、上部団体役員として、気軽に「こうしようぜ」と言いにくい。かくして、上部団体役員は、指示をするよりもオペレーターみたいな存在になりやすいきらいがある。

 加えて、目下の単位組合の状況を概観すると、お世辞にも活動活発とはいえない。神津氏は挨拶で、「組合が人々にとって縁遠い」、「(働く人としての)権利意識が薄い」と語った。核心を突いた指摘である。

 前者は、1980年代までは、現在と比較すればはるかに身近であった。狂ったのは、バブルに浮かれて活動を手抜きし、90年代後半からの雇用問題で確たる活動ができなかった。後者は、組合結成当時から指摘されている。そこで、単位組合は、学習会や集会を頻繁におこなって、お互いに学び合った。いま地道に組合員の学習会をおこなっている組合は、極めて少ない。

 これはまことに大変な問題である。権利意識とは、最近流ならディーセントワークである。働く人が企業管理システムに放り込まれた状態で、権利意識が自然に湧いてくるわけがない。勉強せずしてすべてがうまく行くと考えるのは、啓蒙以前であり、子どもが年を食っているだけである。

 神津氏は、「これでは民主主義も本物にならない」と語った。まったくその通りである。わが国の組合は民主主義の申し子である。これを無視しているのは、「猫に小判、日本人に民主主義」というべきである。民主主義が生んだ組合である。組合運動と民主主義意識は同根である。連合と単位組合がしっかりつながるように、連合活動の新たな展開を期待する。