月刊ライフビジョン | LifeVisionSociety

恩師 浅井先生

永野俊雄

 私が生まれ育った浅草は、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲によって、一夜にして焼け野原になってしまった。私が9歳の時であった。当時、私の家族は足立区に疎開していた。ただ一人、店を守っていた父は、翌日、目を真っ赤にしてリアカーに家財道具を積んで私たちの所に辿り着いた。終戦後しばらくして、焼け跡に店舗兼住宅をバラックで建て家族は浅草に戻った。

 小学校1~3年は疎開先の二か所の小学校に通い、浅草への復帰とともに浅草小学校に4年生で転校した。その時の担任は、社会に出て初めて教職に就く浅井護先生であった。浅草生まれの浅井先生は、学校の宿直室に寝泊まりしていた。これを見兼ねた私の母と、別の女子生徒のお母さんは食事などの世話をしていた。我が家にいらして私たち家族と一緒に食卓を囲んだこともある。若き浅井先生は教育に熱心で、時には厳しく、時には優しく、私たちに勉強の楽しさを教えてくれた。

 ある時、先生はクラスの7~8人の男子生徒に声をかけて、放課後、建物の2階にあった「ガラス湯」という銭湯に集まり、お互いに背中を流し合った。生徒の多くは商店の子供であった。当時の商店には自家風呂が無く、もっぱら銭湯通いだった。私が通っていた「蛇骨湯」という銭湯では入れ墨のお兄さんの姿をよく見かけた。

 ある年の夏休み、浅井先生のご両親が住んでいる愛知県岡崎郊外のお宅に、我が家の隣の下駄屋の啓ちゃんと2人で約一週間泊めて頂いた。その時戴いた朝食の味噌汁の味が忘れられない。

 何の授業時間であったのか、今でも定かでないが私が指名され、授業中に落語をやらされた。「あわて者の熊さん」という題で、私は恥ずかしくて教壇の陰に隠れて一席やったことを思い出す。私の祖父が持っていた古いレコードを繰り返し聴いて覚えたものである。

 高学年になると、教育熱心な母が浅井先生に頼み、当時は大学生であった金子さん(仲見世のかばん屋のご子息)を家庭教師として紹介された。金子先生は英語が得意で、日比谷の有楽座で上映中のディズニー映画『子鹿物語』を観に連れて行ってもらった。ここで、字幕に頼らず、生の英語の台詞を耳で学ぶことを教わった。今にして思うと、「英語老年」である現在の私の出発点であった。

 小学校を卒業後は、何年かに一度クラス会を開いて先生にお会いしていた。私たちが中高年に達した頃からは、2~3年に一回「浅草小学校クラス会」を、同級生の照ちゃん(全国おかみさん会会長)が経営する、すし屋横丁の蕎麦屋「十和田」で開催し、浅井先生には毎回出席していただいた。この楽しい会は先生がご高齢に達するまで続いた。その後、先生は10年ほど前に亡くなられた。

 クラス会の写真を同封した手紙に対する返信のお手紙の中に、私が「70歳からのシェイクスピアをライフワークにする」と書いたことに対して次のような言葉が書かれていた。

 「シェイクスピアの全作品を原典で読み通す事をライフワークにされて、日々研究をすすめられているとのこと、この上ないすばらしいことと感嘆しております。」「健康とは『心もからだも共に両方が健全であること、日々のあれこれに惑わされることなく、自らの心の平静と満足を得るよう、私も務めていきたいと思います。共に励みましょう』」と書かれていた。

 もう70歳を過ぎている私になお、昔の教え子を励まして下さる浅井先生がいらっしゃることを、私はしみじみ幸せ者だと思った。浅井先生もシェイクスピアの翻訳本を本棚に揃えて読み、帝劇で「夏の夜の夢」を観劇されたとのことである。シェイクスピアリアン気取りの私には、親しみを感じるうれしい一行であった。

 浅井先生のおかげで「学ぶ楽しさ」「学ぶ習慣」を身に付けることが出来、私の生涯学習につながった。以上のことから、浅井先生は私にとって生涯を通じての恩師である。

 【私の生涯で出会ったヒト・コト・もの/ 2 】                                            永野俊雄  英語・英文学老年