週刊RO通信

国家は脆い、という認識があるか

NO.1419

 最近の政治、とりわけコロナ対策を巡って、識者の見解は、「政治家の説明不足」「政治と国民のコミュニケーションが不足」「政治の信頼感不足」というあたりにある。「丁寧な説明を」という言葉は耳にタコだが、政治家の言葉遣いが慇懃なだけで中身が伴わない。慇懃無礼である。典型が、菅氏お得意の「安全安心」で、記者が中身を聞いても答えない。入社試験面接であれば、確実に落第である。落第生が大きな顔して闊歩するのはポンチ絵だ。

 説明とは、ものごとや出来事が「なぜこうなのか」の根拠を示す行為である。「こうします」という、通り一遍の内容を読み上げるのではない。つまり、中身を合理的に説明し、相手を説得することが説明である。政治というものは、言葉によって相手を説得する技術である。その政治家が、「丁寧な説明を」と注文されるのは、「あなた政治がわかっていますか」と批判されているのと等しい。安倍政治の8年間、続く菅政治は異常に低質である。

 ――民はこれに由らしむべし。知らしむべからず――(『論語』泰伯)という。孔子が、人民は従わせることはできるが、その理由を知らせることは難しいと語った。安倍・菅流はこれと同じだ。当時の人々がそのような社会的精神状態だったとしても、2500年後の現代において、孔子流をやろうとするのはナンセンス、エンシャント・コンサバティブ(古代保守)である。

 古代はおよそ科学とは縁が遠かった。日本学術会議会員任命問題におけるごとく、コロナ対策で最大の知恵袋とするべき学者連との円滑なチームワークが形成されないごとく、「政治を科学する」ことができない。

 一方、得意技は日本的官僚主義的活動である。各所に然るべき部下を配置して差配させるのだが、さすがの官僚もコロナとは談合ができない。コロナとコミュニケーションを図るためには、やはり科学の力を駆使するしかない。昨年、コロナ騒動が開始して以来、対策の科学的知見を期待していたが、いまのところ、残念ながら期待は空振り続きである。

 さて、保守の人士ならば、――国家の形成が、いかに微妙にして精緻な思索と技術を必要とするか――という問題がつねに念頭を離れないはずである。明治以来154年になるが、近代国家としての期間は短い。しかも民主主義はその半分だ。政治家たるものは、国家(状態)が完成品だと考えてはならない。国家は、つねに流動的であり、(人々が)国家であることをひたすら求めているからこそ国家状態できているのである。

 「米国の核の傘に頼らなければ日本を含む地域の平和と安全を確保できないのが現状だ」(読売社説8/6)とまで全面的肩入れしている本尊が、トランプ旋風でガタガタにされた。いまも、トランプが政治を弄んだ結果、「気晴らし過激主義」が健在である。経済は政治と距離を置いて繁栄しているが、巨大な格差問題を軸として、フェアプレー・勤勉精神の影が薄くなり、石ころにつまずいて爆発しない保証はない。

 しかも、世界中(日本も含む)にファシズムが登場している。ファシズムは国の体質ではない。人々の自治意識が低く、社会・政治的状況が思わしくないから、その結果として頭をもたげるのである。

 人間は、自然状態においては、自己の力量の許す限りあらゆる行動をする権力を有する。これを自然権という。その状態では人々は自己の存在維持・拡大をひたすらめざす。いわば万人が万人に敵対する状態であるから、不安と恐怖もまた大きい。それゆえ、国家権力を作って、自然権を、人々がお互いに合理的に調整したのである。下手な権力調整は混乱を招く。

 活力ある国家は、人々が上意下達に唯々諾々したがう無気力や隷属状態ではなく、国家の中で自由闊達に活動する。たまさか先進国でございますと胸を張ってみたところで、そんなものは盤石どころか、コロナ騒動でグラグラになる。われわれは、すでに1年数か月にわたって、さしてなす術もないままによたよたしているわけだ。

 たまたま菅氏が権力の中枢に座しているが、権力たるものは、真剣深刻に考えてみれば、まことに脆いものである。——というような理屈をつねに忘れず、人々がうちなる理性に基づいて思索し行動するように行政の舵取りをしなければならない。国家論がないから丁寧な説明ができないわけだ。