週刊RO通信

2020五輪パラ記録映画への期待

NO.1417

 先週は「負の遺産」も、遺産であり、使い方次第で「正の遺産」になりうることを書いた。今回は、五輪公式記録映画制作への期待を書きたい。(たまたまCNNネット記事を見て思いついた)

 映画監督の河瀨直美氏が、2018年にIOCの委託をうけて五輪公式記録映画撮影に取り組んでいる。同氏は、1997年第55回カンヌ映画祭において『萌の朱雀』で新人監督賞、2007年第60回カンヌ映画祭では『殯の森』でグランプリ受賞、個性的な映画制作で国際的評価が高い。

 制作方針は、「コロナ・パンデミック下の五輪」で、すでに撮影記録は300時間に上り、さらに100時間くらいの撮影を見込んでいる。

 撮影対象として、世界各国の選手のバックグランドに注目し、監督のネットワークを通じて、世界中の若い監督に協力してもらう。直接スタッフは100人で取り組んでいる。医療従事者や、空港検疫など最前線でコロナ対策に当たっている人々の仕事も撮影している。医療はじめ最前線で働く人々は、社会のシステムにおいて、好むと好まざるとにかかわらず、危機において奮闘しているから、東京五輪の特質の大きな要素である。

 五輪反対、五輪に意識的距離を置く人々も撮影する。五輪に対する肯定・否定のいずれについても、五輪の本質を考えるためには不可欠だ。五輪懐疑論・反対論は小さくないが、コロナに脅かされている人々が、的確な情報が得られず、その不満が五輪を吐口としている面もある。ここでは、政治・社会の全体像をいかにキャッチできるかが問われるだろう。

 五輪記録映画では、1936年ベルリン五輪、レニ・リーフェンシュタール監督作品『オリンピア』が有名である。日本では分割して、『美の祭典』『民族の祭典』として公開された。同映画は、リーフェンシュタールがナチの宣伝機関になり下がったとする強烈な批判がある反面、映像美の卓抜した技術については否定できないとする熱烈支持もまた存在する。ただし、これらの評価は、コンテンツ(中身)とプロセス(表現)が分裂している。ドキュメンタリー映画の価値=芸術性は、両者を合わせなければ評価できない。

 視聴者が映像美に酔うのはプロセス(表現)の素晴らしさによるが、ナチの統一的美なるものは、人々の個性や意志が統一されていることであり、歴史的に考えれば、人々が意志なき羊の群れにされていたのである。『民族の祭典』とは、人間が羊の群れになっている事実を技術美によって「詩」に謳い上げたわけだ。ナチが、強制収容所の看板に「自由への道」と書いたことに通ずる。グロテスクかつ非人間的な悪すぎる冗談というしかない。

 監督は、こんなことは十分に承知しているだろう。ドキュメンタリーの手法は、実際の記録に基づいて作成する。理屈はそうだが、なかなか難しい。監督は、50年後100年後にも残る作品にしたいと抱負を述べた。

 蚊帳の外からみれば、きわめて自立心が強い監督と、巨大な商業主義に凝り固まったIOCと政治とは、水と油の関係にみえる。もちろん、IOCや政治が、ここまで迷走に迷走を続けた全貌を総括して、まさに、遺産として後世に残そうと考えるのであれば上等である。しかし、監督が制作を委託されたのは2018年であり、委託した側は「復興五輪」を高唱して、順風満帆のつもりであっただろうから、いまや、委託者と委託先とが、編集方針において大きく隔たっていると考えるのが常識である。

 大きく考えれば、五輪が標榜する世界平和・連帯は、1つのロマンチシズム運動である。「古典は健康であり、ロマンチシズムは病気である」と、喝破したのはゲーテ(1749~1832)である。実際、世界はコロナ騒動がなくても病んでいる。五輪商業主義なるものの本体は、資本主義体制を賛美・維持して、儲けることを第一義(善)とする支配層が、病気を患っているにもかかわらず、健康生活にあると夢想している状態みたいでもある。

 監督は、いままで「見たことのない記録映画にする」とも述べている。そうであれば、記録映画の制作自体が筋書きのないドラマである。東京五輪は無観客競技大会として、「開催することに意義がある」ことになった。関係者の大方は「なんとか無事に終わらせたい」という気持ちであろう。対して、記録映画製作者の心意気は壮大である。時代を切り取られるか!