週刊RO通信

組合が通すべきスジについて

No.1208

 一部専門職について残業代支払いなど、労働時間規制から外すことを含む労働基準法改正案の修正を巡って、連合の動向が注目される。政財界は戦後一貫して労働基準法の改悪を進めてきた。この歴史を忘れてはならない。

 そこで思い出した。1977年春闘である。要求15%で、日ごろ不協和音だらけの労働界全体が足並みを揃えた。石油ショック後の74春闘は賃上げ30%超、75年13%にダウン、76年も似たような調子だった。

 労働界全体に、全産業別組合の要求を揃え、総がかりで賃上げ交渉に臨むべしという気運が起こり、さらに77春闘は、ぎりぎりまで交渉を重視し、全労働組合が集中決戦しようという流れの戦略であった。

 1955年に始まった春闘も四半世紀近く、かつての飢餓賃金時代とは異なってきているし、例年、似たようなパターンが繰り返されるので、組合員にしてみれば食傷気味で、「シラケ」ているという言葉が目立っていた。

 わたしの組合の中央執行委員会・春闘作戦会議の話である。実務能力ありとされている書記長が、交渉相手の人事部と(大ざっぱな)交渉日程を打ち合わせ調整してきたとして、その内容を報告した。

 おやおや、と思ったのは、最後の煮詰め寸前まで事細かに日程を調整しており、その通りやればまさにオン・スケジュール交渉である。有能な相手側人事部キーマンの顔が、わたしのオツムに浮かんだ。

 報告が終わるや、委員長が口を開いた。「その内容は踏み込みすぎだ。いかに日程調整といえども、そのように微細に詰めて、交渉の手足を縛るのはいかん」。寡黙な人で、周辺は、氏の考えを読むのに苦労すると評していた。

 「やがて君たちの世代に組合をバトンタッチする。組合活動や、労使関係というものは、スジを通さねばならん。初めから落としどころを考えて調整するような労使関係ではダメだ」。わたしは大いに肯いた。

 委員長は、まあ、あまりオツムの切れ味、言葉の歯切れがよろしいとはいえない(ように見られていた)。自慢ではないが、わたしは機関誌に委員長の主張をゴーストライトしており、最後まで誰も気づかなかった。

 饒舌だから真意がわかりやすいのではない。むしろ、雑音騒音が多く、真意をごまかしたり、飾ったりするから、却って理解しにくい。委員長は実に率直にして正直な人柄だった。——いま、しみじみ思い出す。

 数年後、委員長は勇退し、前書記長が委員長に就任した。ふと、気づいたのは、新委員長が(当初は)以前よりも寡黙になったことだ。前委員長の忠告が効いたかどうかは知らない。

 某日、人事部のキーマンと話す機会があった。問わず語りに氏は「前委員長はスジを通す人だった。立派だった」と称賛した。わたしは、氏は新委員長のほうを評価するに違いないと思っていたので内心驚いたが嬉しかった。

 スジを通す、というのは容易ではない。まず、スジとは何か? たとえば労使協調という言葉がある。労使はそれぞれ異なる立場にあるから、それぞれの立場に固執すれば労使敵対とまではいかずとも離反方面へ向かう。

 労使敵対・離反はダメだ、協調で行くべし、仲良きことは美しきかなではあるけれども、はじめから協調を前提して協調するのであれば、これは労使なれ合いになりやすく、組合の存在意義がない。スジが通らない。

 会社(経営)はとにかく「収益」に立脚する。きれいごとだと思われるかも知れないが、組合は、組合員の「人間の尊厳」に立脚する。不払い残業だの、過労死だのが話題になるのは、尊厳が収益に負けているからだ。

 会社が順風満帆でなければ組合員の暮らし向きが立たないという理屈があるのは承知している。しかし、労使協調絶対を前提すれば、「会社主義=国家主義」に似て「個人主義=民主主義」と離反する。企業の民主化の逆だ。

 尊厳と収益が侃々諤々の論議を煮詰め、一歩高みに昇る。弁証法とまでいわずとも、これが基本中の基本だ。組合は労使関係の調整役ではない。調整が実るのは、組合員の支持を受けて、みっしり論議を重ねた結果である。

 前委員長は、組合員が「シラケ」ていることを深く強く受け止めていたのである。かつて氏が委員長に就任した時の挨拶は「大衆参加」の組合民主主義を推進することであった。組合は組合員のものなのである。