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新常態の前に――真常態を考えよう

奧井禮喜

 昨年9月号で、「『新常態?』 まだそのときではない」という一文を呈した。今回はその続きである。新常態(ニュー・ノーマル)を語る前に、いままで常態だと思っていたものが、本当に常態なのか。もともとが、アブノーマルではないのかという問題意識が沸いた。アブノーマルを常態と錯覚しているならば、ニュー・アブノーマルになる危惧が大きい。そこで妙な表現であるが、「真常態」を考えるのが本小論の狙いである。

敗戦後から1960年代の技術革新

 常態とはノーマル(normal)である。正常・普通・標準的・自然的・典型的な状態を意味する。だから、新常態(new normal)といえば、従来の常態Aから常態Bへと変わる。表現を変えれば――従来はAが常識的在り方であったが、これからはBが常識的在り方だということになる。

 常識は、社会人として弁えているべき、理解力・判断力・思慮分別などを意味する。英語ではコモンセンス(common sense)で、フランス語ならボン・サンス(bon sens)だ。こちらは、健全な判断力に重心がかかって良識となる。

 ところで、古代ギリシャのヘラクレイトス(前535~前475)が「パンタレイ」(panta rhei)=「万物は流転する」と主張した。世界は、森羅万象ことごとく変化して止まることがない。これは、誰もが認めるであろう。ならば、常態だと思い込んでいるとしても、常態自体が変化しているのだから、時々刻々、好むと好まざるとにかかわらず、わたしたちはいつも新常態にある。

 1960年代には、技術革新が著しかった。明治文明開化以来の大変化だった。スクラップ&ビルドが盛んになった。戦争で欧米との技術格差が半端でないことを知った。唯一アジアの一等国の鼻っ柱が折れて、近代化ではなく、現代化だという気風だ。わたしは大企業の機械設計職場に入ったが、設計基準の分厚い手引書は、技術提携した米国社の手引書をそのまま翻訳したもので、インチをミリに換算しているから収まり具合のわるい数字ばかりであった。

 いわば日々之新である。昨今の新常態は、数年前に中国の習近平氏が使い始めた言葉に便乗したと思われるが、当時は新常態というような迂遠な言葉は使わなかった。しかし、昨今の新常態どころではない。人々にとって、技術革新といえば一大技術革命として受け止められていた。ともあれ、せっかく、こ洒落れた言葉が登場したので、少し理屈を整理してみたい。

人間行動の原則

 人間の行動(Behavior)は、主体(Person)と環境(situation)の関係によって決まる。公式化すれば、B=f(P,S)である。

 習近平氏の「新常態」論は、環境に対する極めて積極的な意志を感じる。日本では、コロナ騒動から生まれたようである。環境S=コロナ騒動において、主体Pが対応して、行動Bを生み出す。人間は環境との関係において変化し発展してきた。だから、新常態なるものは、従来よりも本質的に「+」傾向でありたい。

 日常生活をスケッチしてみる。――ただいまは、自粛が人々の暮らしに棲みつき、生活行動がさまざまに制約されている。

 たとえば独身者が仕事を終えて、飲食店で飲みかつ食べて1日のケジメをつけているとすれば、不都合極まりない。対策の1つとして、食材を購入し料理に腕を振るって晩餐をたのしむことに切り替える。DIYの奨めである。もちろん、これは理屈である。外食が習慣化(ライフスタイル)している人にすれば、そう簡単には転換できないだろう。定年後、自前料理に挑戦する人が相変わらず珍しいのをみればわかる。

 つまり、環境変化に対応せざるを得ないとしても、もっぱら環境を絶対として自分の行動を変化させるのでは、面白くないし、容易に踏み切れない。本質的に元気を失うらしい。自分が変化を作り出すには、はじめに主体Pありき、自身の積極性と納得性が不可欠である。

 傷病で入院すると、回復するために努力をする。そうではあるのだが、病院では医療従事者の指示に一切従わねばならないから、心理的に負担があり、面白くない。そこで、禁止行為を内緒でおこなうことによって気分を維持したくなる。禁酒禁煙をこっそり破る手合いである。(こんな武勇伝を推奨しているのではなく、心理状態の事例である)

 食べ歩き大好きの某氏は、大手術の後で室内をうろちょろできるようになったが外出できない。ある日、同室の仲間を誘って回転寿司をやろうと提案した。差し入れの寿司をたくさんテーブルに並べて、自分たちが周囲を回ろうという。アイデアを話しただけで仲間たちは大爆笑、おおいに元気が出た。他愛もない話だが、人と寿司の相対関係において、いずれかが回転すればよろしいという発見は、柔軟な精神である。変化対応のアイデアリストに入れておきたい。

 勉強に熱が入りにくい子どもは多い。――勉強して自分が成長する。これを知りたいと思って勉強するならおおいに成果が上がるが、自分が何を求めているのか、何のために勉強するのかがわかる子どもは少ない。せっかくの勉強が我慢を頑張る=耐久レースになる。先生が優秀でも、勉強に対する子どもの主体性を育てるのは難しい。点数獲得の勉強に精出すだけで、学問の意義を理解できない。この精神状態で教育期間が長期化する結果、世間には怪しいエリートがうようよしているのではなかろうか。

 これらの事例から類推できるのは、――主体Pなるものが、自分自身であるにもかかわらず、環境に対して働きかけるどころか、大方は受け身であって、環境に適応するだけで精一杯という構図が見えてくる。

現状に対する見識

 次に、元気な(従来より質の高い)新常態をめざすためには、いままでの常態がいかなるものであるか。これを確かに把握するべきである。もともと元気が出ていない状態にあって、それを単に我慢している人は、ノーマルだとは思っていないだろうし、新しい状態に変わっても(客観的には、たまたま以前より上等になったとしても)、素直に歓迎しない。

 企業内高齢者が日常的に不機嫌な働き方をしている事例があり、若い世代から不評を買うという話は尽きない。しかし某氏は、ある日突然不機嫌になったのではない。先輩の高齢者の批判をしていた若かりし時代から、着々と不機嫌な高齢者路線を歩んできた、不機嫌の筋金入りなのである。日々のもやもやした不満を習慣化した結果だと考えるべきである。

 つまり、新常態なる言葉が有効に作用するためには、各人が主体的に、いままでの状態に対する適切な問題意識を確保していなければならない。問題意識程度はもっていると誰でも思うだろうが、実際は、大方の問題には霧がかかっている。何が問題なのか、各人が認識しているつもりでも、認識されていないことのほうが多い。だから、各人が問題だと考えていても、いつまでたっても解決されず、悪しき状態に流されている。

 組合活動に関連して一例あげれば、大方の人々が職場のコミュニケーションが悪いと語るが、いつまでも解決されない。これは間違いなく問題なのであるが、「問題を設定する」という問題があって、次に、問題を設定し体系化する作業がまったくおこなわれていない。

 自分の見解(問題意識)の正当性を証明し主張することと、見解のような状態(常態)になってほしいと期待することは、まったく別物である。組合を例にとると、――活動が盛り上がらない。盛り上がらないのは、大方の組合員が活動に無関心で、仲間に対する連帯感が薄いからだという。

 自民党の大物(?)が、選挙の投票率が低いことを、しばしば歓迎する。無関心が多数派でも、自分たちが権力を維持できるだけの支持があれば、それこそ最大の幸福なのである。なぜなら、権力の座にあれば好き放題できるからだ。しかし、組合が(意識していなくても)これをまねるならば自滅行為である。組合は資本主義体制における労働者の不都合を解決するために発生した。組合員の連帯が大きくならなければ、組合力は発生しない。

 組合員が無関心でも、組合費(≒税金)を黙って納めているならば、組合機関は安泰である。そこに大きな落とし穴がある。連帯がないのは、連帯を組織していないからだという事実から逃げてはならない。労働者は連帯する存在ではない。労働者1人ひとりが連帯する必要性を感じたとき、連帯が始まる。

問題設定の基本的課題――常態の真(真常態)

 さて、真常態について考える。常態の真とはいかなるものか。ノーマルをいかに規定するか。

 ミャンマーでは、密かに爪を磨いていた連中を担ぐ国軍が、突如クーデターを引き起こした。3か月前までの日常が吹き飛んで、目下は、実質的に内乱状態である。アブノーマルである。しかし、すでに日常化しているのも事実である。クーデター派にすれば、これは、自分たちが求める常態へ向かうためのプレ・ノーマルであろう。人々がノーマルであろうとすれば、アブノーマルと戦わざるをえない。

 イスラエルとパレスチナの関係は、1948年にイスラエル建国以来、延々と火種が持続して、しばしばボカンと破裂する。すでに73年間、このまま根本的に変化が起こされなければ、100年戦争になっても不思議ではない。国を指導するつもりの連中にすれば、戦闘の火種と爆発は前提条件らしい。それを解消しようという真剣な行動がないのは、国の統治としてはノーマルだと決め込んでいるように見える。誰のためのノーマルだろうか?

 常態を規定するための根源的要素を考えると、人間と、社会と時間に気づく。社会は人間の生活空間であり、時間は人間の生活時間である。人々がそれぞれの人生を全うするためには、空間と時間の在り方について考えねばならない。空間と時間が、内乱や戦争によって左右されるのを是とする人は少ないだろう。アブノーマルとノーマルを混同して頓着しないような人間は異常である。

 空間と時間を使って人類は歴史を作ってきた。社会が乱れるとか、戦争や内乱が発生するのは人為的である。そうすると、空間と時間を左右しているのは、煎じ詰めれば1人ひとりに行き着く。だから、近代人は理性的・合理的に歴史を作っていくために、「人間の尊厳=Human Rights」に辿り着いた。

 シュペングラー(1880~1936)の名言を味わいたい。いわく、

 ――観念の歴史は絶えずその行程を歩んでいくが、精神の歴史はつねに新しく始まる。――

 「人間の尊厳」という観念に到達したのは人類の進歩である。人が集まって社会を作っているのだから、お互いがお互いを尊重し協力し合わねばならない。理論では、大方の人が共感し支持するだろう。いろいろ雑多な観念を突き詰めれば、「人間の尊厳」ほど広範に社会の在り方の根源を表現する言葉は見当たらない(と思う)。社会の観念の歴史はここまで到達した。

 一方、1人ひとりの精神の歴史はどうか。人類が生存する限り、地球の社会は歴史を刻むが、個人で見ればせいぜい100年の寿命である。しかも、1人ひとりが生まれたときは、おそらく、最初のホモサピエンスが誕生したときと同じであろう。その社会が到達している科学的・精神的地平とは全然無縁である。100人が同時に生を享けて、100歳で生を終わるとして、精神の到達点は100人100通り、各人の100年の精神史もバラバラだ。

 歴史的観念としては、なかなか立派な段階に到達しているのであるが、観念を皮袋とすれば、中に入っている酒のできがよろしくないのである。

 周知のごとく、「人間の尊厳」は空中から舞い降りるものではない。人類が生み出して育ててきたのだから、それは勝れて人為的なものである。その観念を現実社会の諸問題に生かすのは、同時代を生きる人々の知恵と裁量である。人々の合意と納得を作るのが民主主義である。1+1=2というような正解がない。すなわち完成状態がない。皮肉な表現であるが——いい酒ができないから、元気といえば乱痴気騒ぎ、それが終われば二日酔いで意気消沈というのが、人間社会的状態ではあるまいか。

 常態の真=真常態をめざすのが、人々が発見した民主主義社会への最初の期待であった。だから時代のノーマルは、同時代の人々が形成するものである。それを作るのは一部の権力や権威ではない。そこで、不埒な政治を批判するのである。これは、比較的容易に理解できると思う。そのような事態が発生するのは、1人ひとりが、自身の空間と時間に足を付けていないからである。自分こそが社会だという事実を忘れてはいないか!

 時間は、後戻りしないし、蓄えられないし、譲渡できない。自分の人生そのものだからである。ところが現実には、誰かが作った制度と日程によって行動している。これが現代社会である。

 半世紀前、高齢者人口が全人口の7.1%超になって、高齢者社会に入った。いまは28%超の超高齢社会である。この半世紀一貫して、あり余る高齢期の余暇時間をいかにして過ごすかという不変の! テーマが語られてきた。いわく、余暇時間善用論である。

 ここで、まず余暇時間を過ごしにくいというオピニオンが正しいのかという疑問である。わたしの時間は自身の時間だから、もし、時間を過ごせないというのであれば、わたしは生きていないのと等しい。また、多くの高齢者が時間を持て余すのが当たり前であれば、若者にとっても未来がない。余暇時間ではない、自由時間、自分時間である。自分時間の価値に気づかねばならない。誰かが作った制度と日程から解放された自由に戸惑うとすれば、人間にとって自由は不幸な概念である。

 余暇時間論には、仕事が主で余暇が従というノーマル意識が反映している。余暇という言葉自体、余った暇といういかにも非生産的意味合いが支配する。しかし、少し頭を回転させて、何のために働くのか? と問えば、生きるためだと答えるだろう。しかり、生きねばならないから仕事をするはずである。ところが、仕事生活に関心を奪われて、自分自身がどこかえ消えてしまっている。

 仕事時間と余暇時間はつねに対置されてきたが、このような枠組みを設定することによって、すでに自由な精神活動が制限されている。たとえば、「わたしの人生=時間=たべる・ねる・まなぶ・あそぶ・はたらく——」とおけば、わたし自身の100%自由な時間は「たべる・ねる・まなぶ・あそぶ」時間である。これらの時間が霞んでしまったのは、仕事と余暇にまとめてしまったからだ。

「退屈」からこそ、自分が生まれる

 果たして、退屈は致命的だろうか?――「どんな趣味をもつべきか?」と、問われた場合、わたしはつねに「自分でお考えください」と答えてきた。意地悪ではない。趣味にも向き不向きがある。万人向き趣味はないし、無理して趣味に自分をはめ込む必要はさらさらない。趣味(気晴らし・手慰み)を持たねばならぬという意識がすでに自由を放棄している。

 それよりも、「何をしたいのか?」について自問自答するほうがよほど上等である。子ども時代に夢を見たはずだ。あれをやってみたい、これもやってみたいと考えて、学生時代に何かやったかやらないかはともかくとして、自分自身が辿ってきた時間は、まさに自分の趣味(形ではない)である。子ども時代にいろいろ空想したことを思い出せばよい。空想こそ、最良の劇場である。

 点取り虫勉強を重ねて、やがて社会人になった。他人が作った制度と日程で何十年間も過ごす。わが100年ぽっちの人生について空想することが、あまりにも少なすぎるのではあるまいか。シラー(1759~1805)は、「人間は言葉の完全な意味で人間であるときにのみ遊び、遊ぶときにのみ人間である」と難しいことを記した。完全な意味で人間というのは、自己規定するしかない。ここでの遊びは精神を自由闊達に羽ばたかせることである。

 引退後の高齢者だけではない、現役の皆さんも退屈している。退屈させないのは、他人が作った制度と日程によって「囚われ人」と化しているに過ぎない。夢見る子どもが発育不全で立派な囚われ人になり、しょぼくれているわけだ。こんな活力を欠いた精神状態にはおさらばしたい。

 わたしが半世紀前に出会ってつねづね味わっているカミュ(1913~1960)の言葉を紹介する。

 ――とりたててこともない人生の来る日も来る日も、時間がぼくらをいつも同じように支えている。だが、ぼくらのほうで時間を支えなければならぬときが、いつかかならずやってくる。――(「不条理な論証」)

 いまは、自粛だ。退屈かもしれない。上等だ。退屈からこそ、自分自身の時間に生きる道が開く。「自分こそが自分を支配する」。人生の価値とは、それ以外にはない。これこそが、真常態である。かくして、「すべてよし」と言おう。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人