週刊RO通信

「人流」(?)に見る思い上がり

NO.1406

 5月7日の首相記者会見の冒頭、記者が「短期集中で人流抑制を目指した今回の緊急事態宣言は、当初から17日間は短すぎるという専門家の指摘があり、実際、延長という判断に至ったが、期間や対策の内容は適切だったのか、そもそも短期集中という設定は正しかったのか」と質問した。

 菅氏は「ゴールデンウィークに、短期集中的な対策として、感染源の中心である飲食の対策に加えて、人流を抑える対策を採った。人出が少なくなっており、人流の減少という所期の目的は達成できた」と答えた。

 ご大層な宣言によって人が出かけそうなお店を閉めさせ、営業制限し、出かけるなキャンペーンをおこなったのだから人出が少なくなるのは当然だ。

 しかし、11日の宣言終了前に31日まで延長したのだから、短期集中論による対策は破綻した。記者は、そのとりあえずの反省・分析を質問したのだが、菅氏は、人流減少という所期の目的を達成したと逃げる。所期の目的というなら、予定通り11日に宣言解除することだ。見え見えのすり替え、つまらぬこんにゃく問答以下のこんにゃく答弁だ。

 感染源の中心だとする飲食店の大方が宣言を守っているのに、期待した効果が上がらない。感染源は他にあるわけだ。そのまま延長してもこれまた、「人流の減少という所期の目的達成」で逃げられると踏んでいるのかしらん。

 「人流」なる奇妙な言葉は誰が作ったのか知らないが、マンボウに続く、締まらない表現で、下手なコピーを乱発する性癖をいつまでも止められない。人出といえば済むことを、わざわざ新語=珍語でもったいつける。学問的とまでいわずとも、新語を使うのであれば、言葉の定義をきちんとするのが常識である。言葉の達人とも思えぬ政治家が、意味不明の言葉を乱発するところに、政治家としての真摯・真剣さが感じられない。

 「物流」がアイデア源なのかどうかわからないが、それを転じて作ったのであれば、人と物を同等に扱って、大所高所(?)に立つ政治家諸君が、人々の動きを意のままにできるという、軽薄にして不埒千万な精神状態が隠れているみたいである。無意識下のエリート意識とでも言うべきだろう。

 繁華街に出かけている人々は、客観的には群衆である。しかし、物流で扱うところの物とは異なって、1人ひとりが自分の考えをもって、それぞれの目的を達成するために行動している。それを、お付き合いがない人からすれば、どこの馬の骨かわからぬ政治家が、舌先三寸で意のままに「人流制限」させられると考えるなど、失礼千万である。

 H・アーレント(1906~1975)は、現代の危険性をつとに指摘している。いわく、――現代は、大衆を組織する方法を知り得たならば、すべてが可能と考える、人間(自分)の全能性を信じる人たちと、無力感だけが人生の主要な経験になってしまった人たちとに、二分されている。――(『人間の条件』)

 なるほど、誰もがコロナなどに感染したくはない。だから、大方の人々は、他人が「自粛」を呼びかける! という不愉快な事態にもかかわらず自粛しておられる。自粛は、各人の内面的な行動原理であり、自分が自分のおこないを慎むことである。

 たまたま、日本人は大昔から、周辺の他者について慮る傾向が強い。それは美徳でもあるが、事態によっては主体性を放棄して、流れに漂うだけの悪しき習慣にもなる。他者を不愉快にさせたくないという「人のよさ」に乗じて、権威や権力が押し出されれば自粛は取り繕った強制でしかない。

 コロナ対策のように、誰もが社会における自分の行動を律していくべき課題について、政治決断というものの前提は何か? これからおこないたいことの意思決定への道筋を透明にし、根拠を明確にし、人々に正しく伝達するのが筋道である。情報・知識を共有するとき、社会的な協力体制が築かれる。

 昨年から1年半強、わが政府の危機管理体制の脆さが露呈した。ワクチン2800万回分が到着しているが、接種したのは400万回分・15%にとどまる。医療関係者でも20%でしかない。なぜなのか? 政治行動に関する事実の率直・公正・公開をしないような為政者はその任にあらず。まして、この期に及んで解散時期に、無い知恵を絞っているというに至っては、とてもじゃないが、首相の言葉に信頼を置かれないのである。