週刊RO通信

日米首脳会談批判

NO.1403

 菅氏は外交が不得手ではないかとの報道をしばしば目にしたが、「やってしまった」の一語に尽きる。菅氏個人としては叩き上げの限界であるが、たまたま日本の首相という地位にあるのだから、歴史を作っているという無限の重さを認識してもらわねばならない。トップの意味がわかっているのか。

 日米2+2の内容から、バイデン政権の意図はすでにわかっていた。しかし、首脳会談で2+2のレベルと同じ結論を出してしまったら、余裕がゼロになる。A国とB国が激論していても、両国トップはフリーハンドを残しておくのが交渉ごとの鉄則である。その余裕を失えば、当事者国同士はお互いに問題を解決する説得力を失う。強国同士が対立関係にはまってしまえば、誰が調停できるのか。菅外交は参勤交代の域を出なかった。

 新冷戦、中国包囲網というような世界のブロック化を避けるために、たとえ少なくても余裕を確保するように尽力するのが、日米中3国における日本の外交力というものだ。その努力をしたのか、押し切られたのか。日本外交の重大な選択であると同時に、今後の世界動向を左右する日米首脳会談だったから、日米同盟が新たになったと形容してすむことではない。

 国際紛争は富と勢力の争奪戦である。強国がこれを推進するから世界が揺れる。国同士が同盟を結んで仲良くするのは結構だとしても、その同盟が他国、あるいは他の同盟と富と勢力の争奪戦にはまるのであれば世界の安定を奪う。まして、軍事同盟は明確に敵を作るものである。軍事同盟の強化は確実に敵対関係に拍車をかける。いかに世界の平和と繁栄を看板に掲げようとも、本質は世界平和と繁栄に背中を向けている。

 そもそも、戦力に依存する平和の維持という思想は、言葉とは裏腹に反平和主義である。力(富に支えられた)こそが絶対だという野蛮な思想である。戦力によって達成される平和は、戦いすんで日が暮れた「墓場」の静寂である。軍事力は典型的な権力の具現だから、基本的人権を基盤とする民主主義にも背馳する。国内外を問わず軍事力依存は、デモクラットの手段にあらず。

 いま、米国は中国の台頭に危機感を抱き、覇権主義のレッテルを貼ることに躍起だが、では、米国がどんな平和世界を目指しているのかについてはさっぱりわからない。なんのことはない、米国の覇権が揺らいでいるから、中国を叩きまくるという構図である。

 「日米両国は主権および領土一体性を尊重するとともに、平和的に紛争解決および威圧への反対にコミットしている」というが、そうであれば、なおさら軍事同盟の強化に走るべきではない。軍事同盟の強化は、相手の目の中の塵を問題にして、わが目の中の梁に頓着しないのと同じだ。

 菅氏は「日米それぞれが中国と率直な対話をおこなう必要もある」と語った。必要「も」ではなく、必要「が」ある。軍事同盟強化に走る前に、たとえば台湾問題や新疆ウイグル族問題に関して、いままでいかなるアプローチをしてきたのか。外交機密などとけち臭い逃げを打つのではなく、国民にきっちり説明してもらいたい。北朝鮮についても同様だが、「話す用意はある」と蚊帳の外で呟いても、現実に話さなければ事態は進展しない。

 「日米競争力・強靭性パートナーシップ」によって、経済安全保障を進めるという。言語明快意味不明の事例だ。これは、要するに経済をもってケンカの手段とするものだ。しばしばおこなわれている経済制裁が示すように、経済活動で相手を締め上げるのは、すでに戦争である。

 経済が安全保障=平和に通ずるのは、「商業精神は戦争と両立できない」(カント)からである。経済を制裁のように戦争の武器にするのではなく、自由闊達な経済活動をおおいに発展させることによって、戦争から遠のくのが、本当の姿である。経済安保という概念自体が軍事用語にすぎない。

 普天間、辺野古新基地問題において、菅氏は沖縄の人々の事情を少しでも語ったのか。日米首脳共同声明からはまったくうかがえない。五輪パラ輪に対する菅氏の努力をバイデン氏が支持してくださったそうだが、こんなものは後期高齢者同士の茶飲み話である。国内の人々が支持してくださっているだろうか。まさか知らないわけはなかろう。こんな調子だから米国詣でが参勤交代呼ばわりされる。なにをかいわんや。