論 考

頭が頭--だからであろうか?

 2016年7月26日津久井やまゆり園事件の、被害者ご遺族が、パラリンピック聖火の採火を、やまゆり園再建予定地でおこなうことに異議申し立てをされた。ご遺族は、採火の決定に驚き、違和感があったとされるが、遺族や縁者でなくても違和感をもつ。

 そもそも五輪の聖火はギリシャ神に対する神事である。宗教的に無関係であるのに、聖火リレーに熱心なのは、イベントを盛り上げるための方便であって、野蛮な思想が作り出した悲惨な事件と似つかわしくない。聖火リレーはドンジャカ賑やかに先導するらしい。レクイエムとお祭りは正反対である。

 わたしは新聞報道で初めて知ったのだが、自治体関係者の誰が思いついたにしても、反対意見はなかったのか。いかに、レクイエムの気持ちを込めましたといっても、形式的で建前である。事件後、人々が大いに反省して差別意識が消えたというような結構な事態でもない。まことに軽い、軽すぎる。

 「復興五輪」にしても、「コロナに対する勝利」にしても、なんと軽薄かつ、中身がないことか。上意下達的組織においては、「頭」がとぼけていると、末端までとぼけが浸透するが、まさに(これは菅氏の口癖である)きちんと思索ができない行政組織の典型的事例である。