週刊RO通信

「笑い」がなければ復興ではない

NO.1398

 10年前の日記を読んだ。2011年3月11日に東北大震災が発生して、その衝撃は、目下のコロナ騒動どころではなかった。頭に血が上った。

 最初に、自粛は絶対にいかんと考えた。1995年の阪神淡路震災のとき、全国津々浦々一斉に自粛の気風が支配した。東京のホテルは、パーティ予約が次々にキャンセルされ、しゅんとしてしまった。地震で死傷者・被害が膨大だというのであれば、もちろん哀悼の気持ちを表明することは自然だが、被災地以外では、少なくとも経済活動を踏ん張って社会全体の活力を高めねばならない。これが「がんばろう!ニッポン」ではあるまいか。

 何かしたいがいかんせん非力である。お付き合いしている組合に頼んで、連合被災地支援メンバーに加えてもらった。支援地は岩手県宮古市、東京から貸し切りバスで行く。出発は4月10日9時、現地キャンプ19時到着。

 意気込んで参加したが、自然の猛威・破壊力は想像以上だった。それ以上に、じっと耐えておられるお顔を正面から見られる自信がぐらついた。たかだか数日のお手伝いに参じたのであって、無意識の偽善だと見られたらどうしよう。わたしは、とてもじゃないが、「寄り添う」というような言葉を思いつかなかったし、そんな言葉が浮かばなかったのが、むしろ幸いだった。それこそ無意識の偽善が顔を出したに違いない。後で聞くと、一緒に活動した若い仲間たちも同じ気持ちであった。

 最初の2日間は、10人ほどで海沿いのお宅室内外の泥出し作業。泥はなかなか手強かったが、道具も揃っているし、2日間で大きな泥袋300超を積み上げて、やったという充実感あり。次の日は、宮古港近くの2階建てアパート、ここで3日間室内の泥出しと清掃をやった。2階はきれいなものだが、1階は壁1.5メートルの高さに、くっきりと津波の跡が刻印されている。メンバーは5人、家主のA子さんの応援をした。

 津波から1か月、A子さんは心身ともに非常に疲れておられるようだ。わたしらも容易に話しかけられず、黙々と作業するばかりだった。3日目に、外で一服していると、A子さんが来られて、「あなたは何ものですか?」と問われた。なるほど、他の4人は元気盛り世代だが、わたしは高齢者で、あまり流行らないパイプをくわえていたから、傍から見れば奇妙な奴だと思われたに違いない。思わず「怪しいものではございません」と応じた。

 A子さんは噴き出して笑う。「あ、1か月ぶりに笑ったわ」と言われた。わたしらも笑った。誰もが、どんな具合に話しかけたらいいのか戸惑っていた。形式的に慰めることができる器用なタイプは1人もいない。とにかく、見えざる壁が取っ払われた。これを思い出すたびに、九州男児の明朗快活なYくんは涙ぐむのである。

 仮設住宅へ除雪機を送ったり、一息ついたころA子さんに、わたしらの勉強会へお出ましいただいた。応援活動には翌5月も入ったが、その後は、現地へ行く機会もなく時を過ごしてしまった。

 東日本大震災10年の節目というわけで、新聞は連日、被災地の人々の事情を報じている。いまだ去らぬ恐怖と、親しい人を失った悲しみに耐えておられることがよくわかる。記事を見るたびに、気持ちがうずく。この10年、ほとんど現地での体験を忘れたことはない。もう、10年か。

 ひょんなことから、とりわけ、「笑う」ということの価値を痛感した。「復興五輪」という言葉には極めて不愉快で、思わず嗤った。わたしは、嗤ってすむが、被災地の方々はいかがであろうか。もちろん、有名人やアスリートが現地に入って、みなさんの元気培養に貢献したし、スポーツ大好きの人であれば五輪を待望しておられるだろう。しかし、大方の被災地の人々にしてみれば、復興と五輪が重なるだろうか。おまけに今度はコロナ勝利ときた。

 おそらく「こんなときに五輪かよ」という気持ちが強いであろう。しかし、そんなことは口にできない。なにしろ五輪が復興とくっついているのだから、建前上は歓迎するしかない。これ、へそ曲がりが、ためにする文句ではないと、わたしは思う。なぜなら、報道される被災地のみなさんの記事には、「笑い」の元気がほとんど見当たらないからだ。復興はいまだならず。「伝えよう、被災体験」の前に「笑い」の復活(という状態)が必要ではないのか。