月刊ライフビジョン | 論 壇

朝日の記事「肉弾三勇士」の違和感

奧井禮喜

何を伝えたいのか

 朝日新聞2月18日、企画もの「戦後76年 戦争体験者の証言」は、「『肉弾三勇士』美談の裏の涙」が大きい見出しで、――突入命じた上官「3人思えば泣いてむせぶ」――とサブの見出しがついている。

 この記事を読んで、わたしは違和感を禁じえない。読者に何を伝えたいのか? 『永遠のゼロ』とかいうお涙ちょうだい小説があったが、それとさして変わらぬ程度にしか読めなかった。

 本文の書き出しは、――爆弾を抱えて敵の鉄条網に突っ込み、命を落とした21歳の若者3人がいた。「肉弾三勇士」は自己犠牲の美談として伝えられ、上官もたたえられた。しかし、戦後見つかった上官の日記には部下を思う後悔の念がつづられていた。――とあり、3人に命令した上官内田徳次伍長が残した「戦斗日記」の内容を紹介している。「3人を思えば泣いてむせぶ」「戦傷者のことは一日も忘れられない」という記述と、内田徳次氏の実兄の話――(徳次は)実家に戻った後、仏壇の前に座ってぽろぽろと涙をこぼしながら、「俺が殺した、悪かった。すまない」と繰り返していたという――が、記事の流れである。

作られた「肉弾三勇士」

「肉弾三勇士」を知っている人は少ないだろうから紹介する。

 第一次上海事変(1932.1.28勃発)の、2月22日廟巷鎮(現在の宝山区にある)の戦闘で、日本軍は戦況が思うように進まず苦心していた。相手は中国第19路軍、アイアンアーミーと呼ばれた屈強の軍隊である。トーチカと縦横に走るクリーク、それに鉄条網で頑丈な抵抗線を構築していた。

 混成第24旅団工兵第18大隊所属の江下武二・北川丞・作江伊之助(いずれも一等兵)が鉄条網を突破するために、爆弾を包んだ長さ3メートルの破壊筒を抱いて突入し、3人とも爆死した。

 マスコミは、3兵士は自ら死を志願して、体いっぱいに爆弾を巻き付けて点火し鉄条網に飛び込んだ(当時の東京朝日記事)などと報道し、陸軍は、友軍の突破口を開くための覚悟の自爆であると発表した。いま思えば、皇軍の聖戦も、イスラムのジハードと同じみたいである。事実を詳細に調べた形跡がない。

 国内の人々の感動と興奮が異様に高まった。遺族への弔慰金は前代未聞というほど殺到した。直後3月には、明治座狂言『三勇士』をはじめ映画5社が挙って映画化し、3兵士の故郷久留米では「銘酒三勇士」「三勇士饅頭」が発売され、高島屋百貨店は「肉弾三勇士料理」なるものをレストランのメニューに加えた。ほめたたえるというよりも、他人の不幸でメシを食らうと言いたくなる。

燃え上がる好戦熱

 体に爆弾を巻き付けたのではないし、そもそも自爆覚悟の突撃ではない。爆弾を置いて引き返すのである。他のチームは爆破に成功して無事に帰還した。爆弾の導火線の火縄が短くて帰還する時間が無くなったという説など、自爆ではなく、事故だというのが軍隊では直後にわかっていた。従軍記者のいい加減さもさることながら、軍部の作戦は抜け目がない。

 要するに、1931年勃発の満州事変から、国内の軍国熱・排外熱が高まっていたところへ、三勇士のドラマを創作して、さらに国内のヒステリーを膨れ上がらせたのである。

 上官として命令した内田伍長は、部下の事故死を招いた責任を痛切に感じていただろう。「肉弾三勇士」と、その上官ということで自分もまた天まで持ち上げられたのだから、身の置き場がなかった。

 仏壇の前でぽろぽろ涙をこぼしながら「俺が殺した、悪かった。すまない」という言葉は、単に戦場で部下を死なせたというのとは違う意味が含まれているに違いない。内田さんが誰にも言えない、悔しさや、情けなさの表現だったであろう。死んでからも利用される。世間は無責任に面白がっている。人間としての尊厳が木っ端みじんに吹き飛んだのではないか。

企画が十分に練られているか?

 「戦争体験者の証言」を後世代に知らせるのは大事である。だから「戦後76年 戦争体験者の証言」という企画は賛成である。

 しかし、この記事では、「肉弾三勇士」なる美談が、マスコミと軍部の合作によってでっち上げられたという視点が完全に欠落している。内田伍長の涙が――美談の裏の涙――と形容してあるが、美談そのものがでっち上げだからこそ痛恨・痛憤の涙なのであって、このような記事では、こと志と反して、現代版軍国主義礼賛になってしまいそうだ。

 そもそも、いかに国内がイケイケドンドンで沸いているとしても、自分が殺すか、殺されるか。殺されないためには殺すしかない立場に追い込まれて、あっけらかんと殺人の美学! に心酔するような人が多いであろうか。イケイケドンドンや、戦争の英雄物語を楽しめるのは、戦場と無縁の連中だからである。

 戦争に美談があるのか? あるとすれば、たとえば、助けてくれという敵を無事に逃がすことだろう。人を殺して英雄になるのは正しくないし、自分が命を捨てるのも美学なんかではない。

 戦場は、人間が、まっとうな人間としてあることを否定する。戦場から帰還した圧倒的多数の人々が、戦争体験を語らなかったのは、戦場で、自分が人間ではなかったことを骨身にしみて理解したからではないだろうか。

 根性の根本から戦争好きの人がいないとは思わないが、戦前の徴兵制時代においても、召集されて心から歓喜し、勇躍して戦場へ臨むような人は少数派であった。働き盛りですべての家族が頼みの綱としている若者がわざわざ命を捨てるために戦地へ向かったのだ。しかも給与は格別安い。軍部の発想は、お金を払えば傭兵になる。日本人は自らの意思で国に奉仕する、という。

 徴兵拒否したり、逃走すればとことん追いかけられて、いちばん厳しい戦場へ送られる。本当に自らの意思ならば、誰が好んで戦場へ行くだろうか。軍部官僚の小賢しさを思うと非常に腹立たしい。

 戦争をするのは国同士であり、兵士=国民1人ひとりが戦争好きだから戦争するのではない。いわば、為政者の外交の尻拭いをさせられるのが兵士=国民である。そこで、企画もの「戦後76年」は、「戦争体験者の証言」を通して、読者に何を伝えたいのか。

 1兵士の体験とその証言は、煎じ詰めれば、自分のも、敵味方いずれも「人間の尊厳」を失って、戦場をさ迷うという一点に集中する。破壊することや殺すことや、死ぬことを美談・美学とくっつけるなど、すでに人間の尊厳をわきまえていない。自分を正当化するために、敵に対して徹底的に罵詈讒謗を浴びせかける。それをいくらやっても、自分の人間としての尊厳が回復するわけがない。

 「戦争体験者の証言」が、個人の次元にとどまっているのであれば、戦争を後世に伝えることにはならない。戦争は、国対国の問題だからである。

大義なき戦争

 内田伍長並びに三勇士に奉られた方々が、自分の人間としての尊厳を喪失してまで価値のある戦争だったのだろうか?

 彼らが応召した第一次上海事件は、1931年、柳条湖の鉄道爆破事件によって始められた満州事変と同じく、日本軍による謀略事件である。満州を独立させ傀儡政権を打ち立てようとする関東軍(日本軍)が、列強の厳しい視線を満州からそらさせるために、上海で事件を起こさせたのである。

 中国人を雇って日本人僧侶襲撃事件を起こさせ、それに対する報復と称して、日本人居留民が中国人経営の会社を襲撃した。これが上海事件の引き金だった。

 上海には、各国の租界があった。中国で日本軍が好き放題やるから、中国人の抗日抵抗活動が高まっていた。上海は抗日運動の拠点である。32年1月28日23時から日本海軍陸戦隊が上海北四川路閔北へ出動して、中国第19路軍と市街戦を展開したが、形勢思わしくないどころか、加えて列強の反発を食らう。2月2日には英米仏が日本に対して戦闘中止を申し入れた。さらに25日には、日本軍は弾薬欠乏という事態を迎えた。

 そして、3月3日には、白川義則司令官が一方的停戦を宣言するのである。この日は、国際連盟総会の開始日であった。結局、第一次上海事件で日本は、政治的にも戦争としても、なんら成果を上げていない。

 こうしてみれば、軍部がなにゆえ三勇士の美談をでっちあげたかはっきり見えてくる。いわく、戦争指導のボロ隠しである。その片棒を担いだのが新聞社である。いまの朝日新聞の記者さんたちに、当時の責任が直接あるわけではない。そうではあるが、「肉弾三勇士」関係者の記事を書くに当たって、そんなことも勉強せずに、ただ、1兵士の慟哭記事を書いたところで、いったい何の意味があるだろうか。

 いかになんでも朝日が戦争礼賛のために、企画もの「戦後76年」を掲載しているわけではなかろう。しかし、2021年2月18日の記事は、読者が何も知らずに読むのであれば、89年前に朝日が書いた戦争礼賛記事と大差はない。まさに美談、まさに戦争の美学に通じてしまう危惧がある。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人