週刊RO通信

菅的民主思想の鍋底を見た

NO.1375

 「国民のために働く内閣」という飾らない命名をする人柄だとか、現実主義者で自分の仕事に執着する真面目さだとか、他人の提案を聞いて仕事を進める耳を持つとか、常識をしばしば疑われる麻生氏が「常識が不足している」と指摘した河野氏を押し立てて縦割りの弊害を破るとか。

 のほほんと報道を見聞きすれば、評判のよかった?! 前内閣以上に、菅氏は至誠一貫の仕事人らしいが、ご祝儀相場の冷めないうちに、菅氏の民主主義思想の鍋底を見た思いだ。日本学術会議(SCJ Science Council of Japan)が推薦した新会員105人のうち6人を、菅氏は任命しなかった。

 日本学術会議は1949年創立、内閣総理大臣所轄で、国の予算で運営されるが、会員選考は同会議がおこない、活動も政府から独立している。総理大臣が任命するのは形式であって、同会議の自主・自立は基本的な存在理由である。任命除外について、理由を説明しない。これ、権力の私物化だ。

 日本学術会議会員の選択は、国民1人ひとりにとっては雲の上の話のようでもあるが、全国民にとっては極めて重大である。

 日本学術会議は、国立アカデミーである。日本の科学者の内外における代表機関で、科学の向上と発達を図り、行政・産業、および国民生活に科学を反映されることを目的とする。役割は、政策の提言、科学に関する審議、科学者コミュニティの連携、科学に関する国際交流、社会とのコミュニケーションなどである。わが国の知性の先端的象徴というわけだ。

 拒否された6人は、小澤隆一・東京慈恵会医科大学(憲法学)、岡田正則・早稲田大学(行政法学)、松宮孝明・立命館大学(刑事法学)、加藤陽子・東京大学(日本近代史)、宇野重規・東京大学(政治学)、芦名定道・京都大学(哲学)の諸教授である。同会議の会員は、人文科学、生命科学、理学・工学の3部門からなるが、全員が人文科学部門に属する。どうやら先生方が、安保関連法案、テロ等準備罪、特定秘密法案などに反対したとか、反対意見を表明したことが理由だと推測できる。

 2233年前、秦の始皇帝は焚書坑儒で名を残す。医薬・農業・卜筮には手を付けなかった。今回スケールは小さいが、政府の主張に異を唱える学者は排除するという、焚書坑儒と本質的にまったく共通している。

 現代は始皇帝の時代ではない。日本国憲法第23条には、「学問の自由はこれを保障する」ことが明記されている。学問の自由とは、真理を探求し、真実を究めようとすることである。「本当に本当か?」を求めて、疑ったり、必要な批判を加えることである。

 とかく権力の座に就くと、自分に利益になることはお世辞笑いに手もみしつつ利用するが、邪魔になりそうだと弾圧する。学者から懐疑や批判を取り去ることは、学者の存在理由を奪うことだ。学者は、卓抜した「自助」によって、人々の「共助」に役立つ提案をする。学者の本懐は、発見や発明にある。新自由主義を引っ提げた某学者が政治家へ、政治家から実業家へと転身したみたいに、地位やおカネを求めて徘徊するのではない。

 学者から、――思考する自由、研究の自由、発表の自由――を奪うような仕業は、「学問の自由」を攻撃することである。1933年には、京都大学の滝川幸辰教授が、著書『刑法読本』『刑法学講義』を発禁にされた。自由主義の学説を政府が嫌って弾圧した。

 鳩山一郎文相が滝川教授を免職せよと迫るのを、京大の小西重直総長が肯んじず、法科の教授たちも反対に立ち上がり、滝川を守る運動が京大全体に広がった。「思考・研究・発表の自由」を奪われては大学の自治は成り立たない。日本学術会議は、まさに学術会議の誇り高い自治を侵されている。学問的当否を政治家が決定することを許してはならない。それが先進国である。

 官僚機構が学問に介入するとき、それは人間の知性を潰す行為である。国の政治は、経験だけに頼る政治家によって切り盛りされている。長く政治家をやっていても、ズブの素人政治家は、すべてを自己本位に考える。自分の運命の小舟の操舵にしか関心がない。天下国家が、自分の矮小なオツムには到底入りきらないという大原則を忘れている。スガ政権が、ゴリ押ししてこのままスカ政権になるのか。ならば、アホ政権の延長である。