月刊ライフビジョン | コミュニケーション研究室

銭理群先生 最後の講義

高井潔司

封殺された後、北大(北京大学)は私の唯一の精神的空間だった

北京大学ー銭理群教授 最終講義


 本日は、北京大学での正規の授業として最後の講義になります。最後の時間を利用して、私が北京大学の学生諸君に最も語りたい話として主に二つの問題があります。

 第一の問題は、私が北大の学生に期待すること

 「北大が精神を失う」という問題についてすでに沢山語って来ました。私たちはみんな一般の教員であり、学生であり、あらゆることに抵抗する力がありませんでした。私たちができたことは、ひたすら“守る”ことでした。政治のロジック、資本のロジックにすべて覆いつくされるなかで、われわれは思想のロジック、学術のロジック、教育のロジックを守ろうとしました。そこで私には北大の学生諸君に対し二つの期待があります。

 まず、「独立、自由、批判、創造」の北大精神を放棄してはならないということ。

 つまり、学生の皆さんにはそれぞれ異なった選択があるでしょう。卒業後、異なった職場に向かうことになるでしょうし、異なった職業に就く。人生の道筋にも多くの曲折があるでしょう。ただ一点一致し、変わってもらいたくないこと、すなわちわれわれ、北大というこの土地で育った者として、永遠に「独立、自由、批判、創造」の北大精神を放棄してはならないということです。

 将来あなたは政治にかかわるかもしれない。その場合でも独立、自由思想、批判、創造の精神を備えた政治家、公務員でなければなりません。私利を追求したり、風に舵を任せたままの政治家、唯唯諾諾の、為す所のない怠惰な官僚であってはなりません。

 あなたはビジネスに携わるかもしれない。それでも独立、自由思想、批判、創造の精神を備えた企業家、経営者でなければなりません。機に乗じ巧みに利益を図ったり、暴利をむさぼる悪徳商人ややる気のない凡庸なビジネスマンであってはなりません。

 もし、研究者や教員になったり、メディア・出版の仕事に就くとしたら、あなたも独立、自由思想、批判、創造の精神を備えた学者、教師、編集者、記者でなければなりません。魂を売り払った太鼓持ち、御用文人であってはならないし、文壇や学界に潜り込んだ無用な人物であってはなりません。

 当然、どのように独立、自由、批判、創造の北大精神を堅持するか、人もちがえば、異なった環境、チャンスの下で暮らすわけだし、性格も能力にも違いがあり、その表現形式、発揮の程度も一様ではありません。ある学生は、能力がかなり優れ、十分発揮し、傑出した人材となるかもしれません。さらに多くの学生は、その職責を十分果たすけれども、それぞれの生活姿勢があります。創造力は発揮するが、疑問や批判という点では劣り、独立、自由の思考と人格に優れているというケースもあるでしょう。が、私の言うのは、北大人としての矜持として、軽はずみで北大精神を放棄してはならないということです。

 もちろん、現実の中国で、これを実践することがいかに難しいか、私も知っています。一生それを貫くのは更に難しい、難しい。私たちが直面しているのは、最悪の環境であり、公平な合理的なゲームの規則ができておらず、また民主監督の体制もできていない。この体制下で、人は容易に腐食される。また独立、自由思想は許さず、批判と創造の精神を抑圧する体制の下にあっては、人は容易に潰されてしまいます。

 したがって本当に独立、自由、批判、創造の北大精神を堅持しようとすると、代償を払わねばならない。これは危険きわまりない人生の道のりです。私は時にこう考えることがあります。学生諸君に対してこのように期待することは、理想的すぎる、それどころか、皆さんを害するのではないかと。しかし、私は心から信じています。これこそ真実に通じる、充実した人生の道だと。それは様々な苦難に満ちた人生かもしれないが、そこにこそ本当の意義があるのです。それは私の一生の経歴、経験が私に教えてくれたことです。

 若いころ、読んだ魯迅の『小さき者へ』を思い起こします。彼は日本の作家、有島武郎の一節を引用してこう語る。「幼き者よ、人生の旅路を登れ。前途は遠く、また暗い。だが、恐れてはならない。恐れない人の前にこそ道がある」と。ここを読むたびに、毎回、私は感動します。きょう、ここに皆さんにこのような期待をするとともに、私は皆さんに伝えたかったのは、この道は「大変遠く、暗い」、でも「恐れてはいけない、恐れない人の前に道がある」ということです。

 もちろん私の期待は、皆さんにとって人生選択の一つの参考意見であって、どのような道を歩むか、それはそれぞれが選択すべきことです。

二つ目の私の期待――目線を常に前に、下に、足を中国に大地に立つこと

 1999年12月、私は北大学生会の求めに応じて、短い文章『新世紀に青年に寄せる』を書きました。そこで2点について述べました。一つは「新世紀は新たな思考、新たな批判力、想像力と創造性を求めている。さらなる自由な精神空間を求め、われわれ一人一人にそのための貢献を呼びかけている」と。

 そこには私の一つの判断、つまり、新世紀(すでに我々はその21世紀にいるわけだが)に、人類は「文化の再構築」の任務に直面するであろうし、また知識の大発展、大融合、全人類文明の大衝突、大交流、大融合の時代に入るとの判断を含んでいます。このような新世紀は特に批判、創造、自由の精神を我々に求めてきます。私が先ほど、北大精神を棄てるなと強調したのは、このような新世紀発展の大趨勢に着目しているからです。諸君が新世紀の人材として、このような精神を打ち捨てたら、この大時代から取り残されることになります。

 またこの短文にはもう一つの意味を込めました。「新世紀がこの世界、中国、また私たちに何をもたらすか、予測をするつもりはない。ただ北大に学んだ者に対して、また私自身に対しても、視線を常に前に――つまり“前の声”の呼びかけをしっかり耳に入れ、休まず前進するよう希望する。同時に目線を下に向け、中国の大地に立ち、民間に深く入り、人民の本当の生活に関心を持ち、自身も本当の意味の一般人となること希望する」と。

 ここで言った「新世紀がこの世界、中国、また私たちに何をもたらすか、予測をするつもりはない」という点も、私の一つの判断を込めています。21世紀、世界であれ、中国であれ、私たち自身であり、非常に複雑で、予測の難しい状況に出くわすことになるでしょう。大発展の時代でもあるが、また多くの困惑を抱え、迷妄の時代に入るかもしれない。前方に何が待ち構えているのか、われわれはそれにどう対処するのか、という問題はすぐそこに控えている。今日はこの問題を提起し、皆さんと議論してみたい。

 魯迅はかつて『野草』篇の中の『過客』でこの問題を議論しています。文章の中の「女の子」(まだ何も始まっていない在席の皆さんも含まれる)は前方には「花園」があると言う、それは一人思いの美しい夢であるかもしれない。老人は前方にあるのはお墓だと言う。これはさらに根本的な真実を反映しているかもしれない。問題はこのような前方の状況に対する態度である。老人は宣言する。彼は休息する、前に向かって歩こうとは思わないと。しかし、魯迅が描く「過客」(これは一定程度彼自身でもある)はしばらく躊躇した後。「戻っていく」こともできないし、「休息」もできないという。「前方からの声が私に歩めと言っている」ので「私は行くしかない」と。

 「過客」のこの「前方は墓とわかっていても敢えて行く」という精神は、啓発されるところが大きい。ここでいう前方からの「声」は実は自己の内からの生命の「絶対命令」だろう。つまり、前方にあるのが何であれ、たとえそれがお墓であっても、絶対後退しないし、絶対止まらない。絶対失望せず、絶対放棄せず、「歩く」、「前に向かって歩く」。たゆまず探索し、探し求め、道がなさそうなところでも歩き進む。「地上にはもともと道はなかった。歩く人が多くなると、それが道になるのだ」(魯迅『故郷』)。

 私はきょう、ここに皆さんに心から魯迅の「過客精神」をお勧めします。つまり今後の皆さんの人生の道路で、如何なる状況においても、それがたとえ最も困難で絶望的と思える時であっても、あきらめず、放棄せず、「視線を永遠に前に」「止まらず歩む」、積極的に向上を目指し、前向きに、実践の中で常に探索する精神を堅持する。これこそ魯迅が言う「常に新しい、先進的な運動の先頭に立つ」北大の伝統であり、我々一人一人の北大学徒の体に体現されているものです。

 私のいう「視線を下に向ける」との期待とは、私の一つのひそかな憂いから来ています。それは北大の教育がますます「似非エリート教育」になっているということです。北大はもともと一流の人材すなわち社会のエリートを養成するという蔡元培先生の大学構想の下に設計されました。北大は研究型の大学に属すべきで、実用型、蔡先生は「専科」とおっしゃいましたが、そのような大学ではないということです。私はかつてこう述べました。「北大はまずわれわれの国家、民族のために、学術発展のために新しい思考を提供する思想家を養成しなければならない。それは魯迅が期待する所の「精神界の戦士」です。同時に北大が養成する各専門分野の専門家、学者もみな思想家で、常に現状に満足せず、思想の探索を永遠に休まない精神の流浪者でなけれならない。専門分野の新しい学術思想、新しい研究領域、方向、新しい技術、方法の開拓者でなければならない」と。

 したがって「北大の教学と学術研究は基本的な学理、基礎的な理論を一層重視すべきだし、独創性、開拓性、先取りの精神をさらに備え、自然科学と社会科学、人文科学を相互に吸収し、総合することをより重視すべきだ」と。だが、現在の問題は明らかに北大は自身の研究型大学の優位性を放棄し、いわゆる「市場のニーズに応える」とのスローガンの下、実用型の専門分野に寄り集まっている。それは大学本来のあるべき方向に混乱をもたらすだけでなく、大きく学校の教育、研究のレベル、品位を貶め、先に述べた思想、学術の開拓精神、独創性を備えた高い資質を持つ、エリート人材を養成するという目標からますます遠く離れさせています。真の民族思想文化学術のエリートとは、必ず人類、民族の良知の代表であり、社会の公共利益の代表である。必ず社会に対して強い関心を持ち、低層にも気を配る。彼の目線は上だけでなく、下にも向かう。いわゆる「大地を踏みしめ、星空を仰ぎ見る」ということです。

 私が憂えるのは、北大の「似非エリート教育」の風潮の下、養成されるエリートとは、名ばかりで実体のない「似非エリート」であることです。いわゆる似非エリートの弊害は、実際のところ「学問がよくできれば官途につける」という伝統にあります。北大という橋梁を通じて、既得利益集団に競い合って近づく。これはもともと蔡元培先生世代の先駆者が反対し、極力それを避けたものです。したがって蔡先生は就任一日目の演説の中で、諄々と教えを説いたものでした。「諸君は根本的理念を明確にすべきだ。学びを求めてきたのだ。法学に入ったものは役人になる為ではない。商科に入る者は金持ちになるためではない」と、彼は機会あるごとにこの点を繰り返し強調しました。「大学は純粋に学問、研究の機関であり、資格を養成する所に非ず。知識を販売するところと見てはならない」と。

 皆さん、今日の北大は、入学者の誰もが役人や金持ちを目指さないでしょうか、北大はとっくに資格養成の場であり、知識販売の場であると見て問題ないでしょう! 問題は、北大および中国の大学がこうした変質が社会の基礎になっていることです。全国の統一試験教育の下、皆さんは12年間(小学6年、中・高6年)の艱難辛苦を経て、多数の軍勢が押し寄せる丸木橋を何とか渡り切って北大というこの最高学府に突き進んできたわけです。言うまでもなくそこには対価を惜しみなく投じた家長だけでなく、あなた方自身も「近くの水辺にある高閣にのぼり、月見をする」(役得を得るに便利な場所)を希望されていることでしょう。北大という看板を利用して、各種の既得利益集団に猛進する。あなた方、あるいはあなた方の家長が、北大で学ぶことを通じ、自身と家族の運命を変え、社会のエリートとして養成され、いわゆるジャンプ台として、社会の低層から浮かび上がっていくことを希望する。それはある意味、正当であり、合理的でもあります。これも一種の基本的権利でしょう。

 問題は他人を押しのけてまで既得利益集団に突進するという意識(これも社会的に培養されたものだ)にあります。さらに深刻なことは、北大に入って以降、そこで受けるのは、これまで私が語って来た蔡学長の力を込めて反対してきた極端な国家主義と極端な実利主義の教育であるということです。この二つの極端な教育は、北大のいわゆる重点中の重点大学という点に表れています。すなわち、私たちが語って来た「似非エリート教育」であって、真の社会エリートが持ち備えるべき公共利益の意識、社会への関心、底層への思いやりを育むのではなく、「他者を敵と見做す」弱肉強食のいわゆる競争意識、労働、労働者、一般大衆を蔑み、土地から逃れ、大地に根差した文化から逃れる、人びとがいういわゆるエリート意識を注入しているのです。(すでに述べて来たように、その実、それは似非エリート)

 このような教育の下に養成されたとんがり学生には二つの特徴があります。一つは極端な利己主義。高い知能指数の基本の上に、自己の利益以外には何の信仰、信念もなく、ひたすら緻密に細かく智謀を張り巡らす利己主義を打ち立てています。

 二つ目の特徴は自身の生まれ育った土地、その土地の文化、人民に対して、なじみが薄いだけでなく、感情や心理的にも一種の疎外感があり、まるでコスモポリタンようにも見える点にあります。(彼らはひらすら愛国主義のスローガンを空の果てまで届くように叫んではいるけれど)実際には他国、世界に行ってみようとも行くこともできない、孤立した人間に過ぎません。このような根を失い、根のない状態は、彼らに本当の苦しみをもたらすかもしれないが、彼らはかなり長い間、そんな感覚も持ち合わせていません。この社会が彼らにとって勝手気ままにふるまわせてくれ、彼らはまさにこの体制の後継者として育てられています。それもまた必然的なことでしょう。当面の社会を支えるこの人材はすでに信仰型ではなく、盲従型の人材であり、信念もなく利益を図るためにすべての命令に従う。ただし、現代の科学知識や管理能力を備え、国際的な交渉力に長け、高い知性、階層の極端な利己主義者でもあります。これらは効率的に国家の意志を失効し、既得利益集団の幹部メンバーとなっています。

 このような後継者を育て送り込んでいくのが、まさに国家主義教育、実利主義教育の目指す極端な似非エリート教育の目標です。このような国家的使命を完成するのが、まさに一流大学だ。さらに国際資本の意志を執行できるなら、もう世界一流大学になったことを意味します。

 私たちが出来ることは、やはり絶望的な反抗です、北大の学徒に目線を下に向けよとの希望を提出すること――中国の大地に立って、深く民間に入り、人民の本当の生活に関心を寄せ、自身を本当に普通の人間と見做すこと――それはこのような似非エリート教育に自覚的に抵抗するということです。

 ここで提起したいのは、立脚点の問題です。人々のいうこのグローバリゼーションの時代(これは21世紀の最も基本的な特徴)、どこに立つかは大きな問題です。世界という範囲において、私たちは中国本土に立つべきで、その後にこそ真に世界に立つことが可能です。国内において、私たちは民間、底層、一般大衆の中に立つべきです。それは国家、社会の根幹であり、私たちの生命のルーツでもあります。「視線を下に向けよ」というのは、すなわち中国というこの土地に住む大多数の人々の生存状況を注視し、しっかり彼らのために利益を図ることだ。それは私たちの人としての根本であり、現代の一人の知識人としての根本です。「本当の一般人になる」ことを強調したのは、魯迅の提唱したいわゆる「泥土」精神を強調したかったからです。若者として、高い理想――いわゆる「将軍になりたくない兵はいい兵ではない」――を持つだけでなく、平常心を用い、小さなことをするのを恐れずの精神を持つことです。これは北大人にとってとりわけ大事なことかもしれません。多くの人がいうように、北大の学徒は容易にトラブルを引き起こす、志は大きいが能力が伴わない、見識は高いがやらせてみるとダメ、小さなことをやろうとせず、バカにして相手にもせず、実際のところできない。大きなこともできない。私たちがこれまで語って来た独立、自由、批判、創造の精神はすべて一つ一つちいさなことを確実に実行するということだ。私が北大の学生諸君に期待する二つのことは、相互補完の関係にあり、一つのことに帰結する。つまり「大地を踏みしめ、星空を仰ぎ見る。これは真の人間かどうかの境界であり、真の人間になるということでもあります。

 以上、今回の話は、大学教育、北大の伝統、北大の学徒に対する私の期待に関するものでした。あれやこれや思いをめぐらし、でたらめばかりで、現実からはなれ、時宜にもかなわないものでした。いくつかはタブーをも犯しました。学生諸君は必ずしも同意する必要もありません。ただすべて私の心からの本音です。長時間、お疲れさまでした。これは私の北大に対する「別れのことば」と言えるでしょう。「遺言」といってもいい。後は今後の証明を待つ「証文」と言えるかもしれません。それで天下を統一するなんて容易ではありません。きっと異なった意見もあるでしょう。話は終わりました。私の使命は完成しました。(2002年)


文責 高井潔司