週刊RO通信

大弁は訥のごとし--政治家の信用

NO.1360

 『老子』に――大弁若訥(たいべんは訥のごとし)――という言葉がある。大いなる雄弁は、訥弁に似て多くを語らない。多くを語らずして聞く人を心服させることこそが最上の弁論である。

 かつてぺらぺらおしゃべりするが言葉が軽くてカンナクズみたいだと酷評されたのが中曽根康弘大勲位である。一方、国際会議において日本の政治家はあまりにもしゃべらない。同時通訳のハシリであった某女史は、「わたしが感情も含めてきっちり通訳するから、もっと闊達に話してほしい」と嘆息交じりに述懐された。その点、外国人に対しても中曽根氏はよく話したという事実は補足しておこう。要は、言葉に信頼がおけるかどうかである。

 安倍氏は2014年1月20日の自民党大会で、「世界の真ん中で輝く国」にすると語り、「常に謙虚で丁寧な政治」をするとも語った。

 前者は、それなりのキャッチコピーだとしても、中身がまったくわからない。政治家の言葉は、事実でないことを事実らしく仕組みがちである。もちろん、これから自分がめざしたい政治の方向性について抱負を語ることは、政治家であるから当然である。

 抱負というものは、その時点では「虚構」である。虚構が一切いけないとは言わない。現状から新たに出発する場合、新しいものを作って行こうとすれば、語るべき内容は本人の意志であり、聞く人をして共感させ、共にめざすことになればさらなる前進のためにおおいに意味がある。

 ただし、めざすべき中身がまったく固まっていなくて、コピーだけがあって、人々の知覚・記憶・想像のみをくすぐって一時の精神的高揚を引き起こすだけであれば、役に立たないだけではなく、ヤルヤル詐欺とよく似ている。

 「世界の真ん中で輝く国」というのは気宇壮大にして大事業である。語ったからといって、直ちに実現しないのは当然であるが、まあ、長期政権という結果からして、少なくともそのような兆候が出ているかどうかくらいの判断をしても意地悪ではなかろう。安倍政権はどうやら反対へ歩んでしまった。政治は結果責任であるから、基本的に看板に偽りありだ。

 言葉に性根が入らない。仮にそれが本心だとしても「虚構」である。これは誰かに頼まれたのではない。安倍氏自身が生み出した表象である。自分が生み出した表象だという自覚・認識がないのは、煎じ詰めれば、知性の不足・欠陥ゆえである。責任を伴わぬ言葉はしゃべった時点から腐る。

 人間は、反省的認識が常に必要である。反省しない人間が発する言葉は、その時点、その場での処世術に過ぎない。政治家たるものは反省を忘れてはならない。反省がない人のおしゃべりは他者を共感させるどころか、自分自身の真面目な思惟の役に立たない。思惟なく、反省なく吐き出される言葉は垂れ流しである。締りがない。

 「積極的平和主義」なる言葉も発した。ヨハン・ガルトゥング博士が1969年に提唱したPositive Peace、「貧困と差別のない世界」を作って行こうというコピーと比較すると出来損ないだ。ずいぶん力を入れたはずの対ロシア交渉(北方領土)は、凡打が記録的数字になった。野球であれば、選手はとっくにベンチ外へ放り出されたであろう。

 北朝鮮の拉致問題では、国内の政治的スローガンとして大いに有効であったように見えなくもないが、相手国の総帥と「直接交渉する」など公言したけれども、蚊帳の外から見る限り、これまた全然動きらしきものがない。水面下で苦心惨憺尽力していると信じたいが、さまざまの状況から考えて、これまた言葉の垂れ流しにしか見えない。極めて遺憾である。

 「法務大臣に任命した者として責任を痛感している。国民の皆さまに深くお詫びを申し上げる」――舞台の袖で口上を述べるピエロのごとし。コメツキバッタでも頭を下げる。モリ・カケ・サクラを引きずって、責任痛感お詫び芝居のエンドレス。政治家の恥は国の恥だ。大臣任命責任者が疑惑の中心に座すかぎり「世界の真ん中で赤っ恥の国」と言わずにはいられない。

 政治家の言葉が軽いとか、言葉に信頼が置けないと批判されるようになったら、時すでに遅い。知性なき治政は、散る桜残る桜も散る桜、コロナ風で可及的速やかに散ってもらいたい。「もう、その時ではありません」