週刊RO通信

賭けマージャンの僥倖

NO.1356

 ルソー(1712~1778)に『演劇について』(1758)という著作がある。ジュネーブに常設劇場を作るという動きがあり、それに対して、ルソーが演劇の是非をめぐる論争を挑んだのである。

 ルソーは、民衆の立場から貴族趣味の演劇を批判して、健全な市民生活はどうあるべきかを主張した。人間には楽しみが必要であるが、人生は短いから、単なる気晴らしや手慰みならば、時間の浪費であり無駄である。

 そのような時間を費やすことは悪しき習慣を身に着けることにもなりかねない。素朴で勤勉な民衆は、自分が好きな時に好きなことができるのである。素朴で勤勉な民衆の気風に余計なことをするなと極めて厳しい。

 ルネサンスによる自由な気風から、啓蒙主義がひたひたと広がっていたが、ルソーの目には、好奇心をそそり、よろしくない幻想をもたらす傾向として映っていたのであろう。

 それから260余年、日々繰り広げられる見たくもない政治芝居の低俗ぶりにもかかわらず、加えてコロナウイルス騒動のうっとうしさにもかかわらず、社会秩序の平穏なることは感動的である。

 黒川弘務東京地検検事長の辞職は、緊急事態宣言下において賭けマージャンに興じたのが露見したからであるが、その公職にあるということを除けば、おそらくどこにでも転がっている話であろう。

 岸田文雄政調会長は「言語道断、辞職は当然」と切って捨てたが、原因を手繰れば黒川氏はこの2月7日に定年退職していたはずで、超法規的(正しくは無法)半年間の定年延長を閣議決定したことこそが言語道断である。

 本人が望んで定年延長してもらったのかどうかは知らぬが、定年延長したために辞職する羽目になったわけで、何ゆえ定年延長しなければならなかったのか、これがきちっと解明されねばならない。

 1月31日の閣議決定で黒川氏の定年延長が決まった。もともと、現在の検事総長・稲田伸夫氏の後任として名古屋高検検事長の林真琴氏を予定していたところ、政権が認めなかったことは、すでに知れ渡っている。

 つまり、この時点で検察庁に対する不当な人事介入がなされていた。林氏が不可で黒川氏が可だという真っ当な理由があるならば、それを堂々と議会で説明すればよい。説明しないから後ろ暗さに世間の注目が集まる。

 「余人をもって代えがたい」というような形式あって中身がない言葉を打ち出すから、ますます勘繰られる。黒川氏の気持ちを忖度すれば、森友事件で嘘っぱち答弁を貫いて国税庁長官に出世した佐川宣寿氏を想起しただろう。

 森友・加計・桜の一連の政権運営を知らぬわけはない。政権が黒川氏に何を期待しているかわからないわけがない。いかに外面をつけようとも、黒川氏自身が佐川氏と同じ立場に追い込まれていると考えたであろう。

 佐川氏は刑事告発されたが、大阪地検特捜部が不起訴処分にした。3月19日には、元近畿財務局で働いて自殺された赤木俊夫氏のご遺族が大阪地裁へ民事訴訟を起こした。国有地値引き事件の真相が究明されねばならない。

 佐川氏が国税庁長官に就任したのは2017年7月である。国税庁長官という名誉ある公職に就きながら、公開の場での活動は皆無であった。挙句8か月後には懲戒処分が出されて、即日依願退職した。

 権力への意志こそが議会主義的指導者の原動力であるとか、官僚たるものはその権力と結託して、わが身の出世こそ本願、所詮利己的努力と俸給のみが人生であると、黒川氏は割り切っていたのであろうか。

 賭けマージャンというが、賭けないマージャンなどほとんどなかろう。馬鹿でなければ、この時期にすっぱ抜かれる事態をまったく顧慮しないわけがない。なるようにしかならないと考えたかも知れない。

 あるいは、佐川氏のような末路を辿らないためにはここが踏ん張りどころという気持ちもちらつかなかったであろうか。本当に言語道断の諸悪の根源を引き出すべきたという気持ちがまったくなかったであろうか。

 「暴政とは権利を超えた権力を行使することであって、何人もそのようなことへの権利をもつことはできない」(J・ロック)。偶然にしても、黒川氏が言語道断一派と絶縁できた。氏の人生にとって、よかったではないか。