月刊ライフビジョン | 論 壇

人生を芸術する精神

21組合研究会レポートより

アンコンシャス・ヒポクリット的日本人

嫌らしいキャッチコピー

 2011年の東日本大震災が発生して、「がんばろう!日本」というコピーが日を追って全国至る処で目に付くようになった。これは、観光庁の旅行振興キャンペーンで使っていたもので、観光庁によると、その対象は、① 観光・旅行を通じて、被災地に対する直接の支援につながる取組(例えば、義援金付ツアーの実施、ボランティアツアーの実施等)、② 風評被害を受けている主に東日本向け旅行を促進させる取組、③ その他、全国における国内旅行需要を喚起させる取組が狙いであったそうだ。

 しかし、現地に入って多少お手伝いをしながらこのコピーが目に入ると違和感がある。わたしが最初に被災地岩手県宮古市に入ったのは、震災から1か月後の4月11日であったが、以来日を追って、コピーが目に入るたびに嫌味を感じてならなかった。サッカーのサポーター的乗りみたいである。震災でへこんだ経済を取り戻す、実利的には理屈にかなうとしても気色が悪い。

 6月25日に発表された東日本大震災復興構想会議の報告書に「悲惨の中の希望」というタイトルが付けられたのも、まことに気持ちが悪かった。客観的・情緒的・文学的表現であるが、被災した人々の気持ちには似つかわしくない。誰にとって悲惨の中の希望なのか。被災地に寄り添ったポーズがなおさら嫌味であった。これが、わたしの感性的反応であった。

 他人の不幸に対して、いかにも同情しているような素振りであるが、心がこもっていないのではないのか。掛け声に唱和するだけで、大方はほとんど行動が伴わない。偽善的態度が感じられて気分がよろしくなかった。

 1960年代に、米国コピーライターの古典的名著『コピーカプセル』を書いたハル・ステビンスは、貧しい子どもたちに寄せる寄付が大幅に減少したとき、「Love Costs Money」(愛にはカネが必要だ)という極めて直截的なコピーを打ち出し、一挙に募金が増えた。表現に品がないという批判が出るとしても、わたしは、この直接的な訴えのほうが心地よい。

大正デモクラシーの時代

 夏目漱石(1867~1916)の『三四郎』(1908)、『それから』(1909)、『門』(1910)は三部作とされる。それを貫く1つのモチーフがアンコンシャス・ヒポクリット(unconscious hypocrite)、つまり、「意識せざる偽善者」という言葉である。本当の自分の気持ちを偽り、世間体を取り繕うという意味である。

 『三四郎』では、美貌の美祢子が純情一途の三四郎を翻弄する。美祢子の態度がアンコンシャス・ヒポクリットである。『それから』の代助は、かつて恰好をつけて友人の平岡に三千代を嫁がせる。三千代が好意を持っていたのは代助である。後に、代助は自分の三千代に対する思いが断ちがたく、三千代との縒りを戻す。代助がアンコンシャス・ヒポクリットである。

 『門』では、代助と三千代が宗助とお米になって、かつての友人知己を避けてひっそりと暮らしている。2人の愛情は、ただお互いの愛情だけではなく、世間を避ける心細さの心棒ともなっている。アンコンシャス・ヒポクリットの代償というわけである。三部作で描いた内容は、現代人からすれば容易に理解できないかもしれないが、ぜひ、読んで考えていただきたい。

 この時代は、すでに西欧の精神、価値観が流れ込んでいた。たとえば、男と女が自分自身の心根に正直に愛を告白して求めあうという流れと、昔からの家督第一主義、義理と人情の流れが、見えざる衝突・葛藤を引き起こしていた。これが読み方の肝である。三部作の主人公たちは、かつて自分の気持ちに忠実な決断をしなかったために、後々の苦悩を背負い込むのである。

 1927年、芥川龍之介(1892~1927)が「ぼんやりとした不安」という言葉を残して服毒自殺した。芥川が、自分が生きたい生き方と、義理と人情の生き方の選択に苦悩した挙句の自殺であった(と、わたしは考える)。芥川に『歯車』(1927)という小説がある。文中、自分のことを「虚栄心や病的傾向や名誉心の入り混じった」云々と分析している。

 芥川が神経衰弱で苦しんでいたのは事実である。しかし、神経衰弱はいわば社会的病気である。西洋から入ってきた「我」と、昔ながらの義理と人情の社会的習慣の流れにおいて、両者は対立している。芥川的「ぼんやりとした不安」とは、すべての日本人が直面している二大潮流において、芥川が真っ正直ゆえに、アンコンシャス・ヒポクリットではないから悲劇を招いたのである。

現代人は、すでに現代人か!

 芥川の時代から90年が過ぎた。昔は、10年ひと昔といった。時代が下がるにしたがって、10年どころか3年ひと昔だという説も登場した。なるほど、わたしたちが目にしている時代は音を立てて変化しているようである。しかし、よく考えてみれば、水面上では激しく波打っているようだが、水中深く潜っていくと、水底ではまるで異なる景色が見えるような感じがする。

 日本国憲法が施行されたのは1947年である。敗戦後から、ポツダム宣言に謳う民主化が進みつつあったから、45年を民主主義の出発点と考えれば、今年は民主主義75年である。水面上では、民主主義国家であり、自由と民主を名前にした与党が好き放題に政治を動かし、その頂点に立つ首相は、右翼的パトリオットとして自他ともに認めている。

 民主主義とは、政治的には基本的人権・主権在民に基づいた、自由・平等(フランス革命では、これに友愛)であり、最大多数の最大幸福、法治主義である。これを人間精神として表現すれば、個人主義が根っこである。つまり、民主主義制度は個人主義という根が張っていて、基本的人権・主権在民という太い幹があり、最大多数の最大幸福・法治主義という枝葉が茂って花が咲く。とくに、民主主義というなら、利己主義ではなく、個人主義の精神が必要である。

 果たして水底は、この75年間民主主義に向かって動いてきたのだろうか。日本的旧体制は、1185年鎌倉幕府を出発点として、臣民時代が終わった1945年までがその体制だと考えれば、760年間の長きにわたる。人間は習慣の動物である。習慣は、感性・悟性・理性によって形作られるが、それらを動員するのは意志である。水底の意志の変化というものが本当にあったのか、あるいは、いま現実に変化しつつあるのだろうか。

武士道は武士道であったのか?

 武士が社会の支配者として君臨した時代の精神は武士道であったという。しかし、新渡戸稲造(1862~1933)『武士道』(1899)に昌道されたような精神が社会的に浸透していたかどうか、極めて疑問がある。

 新渡戸も、武士道は哲学までは育たず、日本人は感情的に過ぎ、名誉感のみが空回りしたと指摘している。名誉感を下世話流に表現すれば見栄である。見栄は角度を変えてみれば、人間を成長させる1つの理想である。理想に向かって、見栄を、ただ自分を人前で取り繕うだけではなく、それを実現させていく生き方に突進するのであれば、武士道は哲学的境地にまで登ったであろう。しかし実際はそうではなかった。

 では、民主主義以前の日本人の精神(道)とは何だったのか? 田口卯吉(1855~1905)は『日本開化小史』(1877~1882)においていわく、わが国では、神権・忠義・報国を人々に教え、ごたつく社会の気風を処理しようとしたが、これは無理があった。なぜなら、人は生まれながら神威を理解するものではないし、宗教を信ずる者ではない。神話は人が作ったものであり、神が書いたのではない。だから、人が神を作ったのである。(要旨)

 まことに見事な論旨である。フォイエルバッハ(1804~1872)は、『キリスト教の本質』(1841)において、神の人格性は、人間の外化された人格性であって、人間が作った神に人間が従属させられるのは疎外であると喝破した。田口卯吉の論もまさにそれと同じである。

 『新日本史』(1893)を書いた竹越与三郎(1865~1950)は、1905年ごろ米国人向け演説で、武士道は日本人のcreed(信条)ではない、道徳法でもない、所詮少数者のものに過ぎず、かつて国民は武士道を特別に尊敬するべき理由を持たなかった。徳川幕府が宋学を貴んだが、1279年に金に滅ぼされた宋の学問は、名節を保つのみであって、わが国は亡国のもらい泣きをしたのである。そして、もし武士道に基づいて行動するならばドン・キホーテである。日本人一般の価値観は「義理と人情」である、と主張した。

 竹越演説は、日露戦争を米国の支援によってポーツマス条約を締結した後のもので、それに対する感謝の念もあって謙遜的に話したとも考えられるが、日本人一般の行動が「義理と人情」にあるというのは、わたしは妥当だと思う。幕府時代、庶民は決定的な上意下達で締め上げられていた。そして、日露戦争後の日本は、今度は国家と臣民の関係において、個人を抑圧する流れになる。

 たまたまアンコンシャス・ヒポクリットを持ち出したが、漱石の三部作は前述のように、個人にとって窮屈な社会的事情において書かれた。「義理と人情」、国家と臣民の関係において明治時代後半からの日本は、ますます個人主義とは反対方向に権力の圧力が働いた。「泣く子と地頭には勝てぬ」という意識が変わらず、臣民の看板のもとに、さらなる権力の個人支配が強化された。

 このように考えれば、水面に偽善者というスタイルで現れる水底の意識は、民主主義になっても微動すらしなかったのではなかろうか。「新しい酒は新しい皮袋に入れるべきだ」(新約聖書マタイによる福音書第9章17)という言葉を援用すれば、「新しい酒を古い皮袋に入れている」ままで、民主主義時代を過ごしてきたのではなかろうか。

人生を考える1つの視点

社会の変動

 社会構造を、上部構造(思想・文化)、中間構造(政治・法律)、下部構造(経済・技術)と置いて考える。大昔から下部構造は、社会の基盤的支配力を持っていた。それが基盤となって中間構造が整備されたと考える。上部構造は、いちばん後から形成される。前述の水底の意志とは、こちらでは上部構造である。

「初めに言葉ありき」(新約聖書ヨハネによる福音書冒頭)というが、実際の社会は下部・中間構造によって動いていたのであり、言葉=上部構造が社会を牽引していたのではない。そして、現実の歴史を見れば、キリスト教信者においても下部構造と中間構造が大きな力をもって社会を動かしてきた。

 わたしたちが普通に社会と呼んでいるものは森のようなものである。森を作っているのは間違いなく1本ずつの木である。「初めに言葉」があって社会ができたのであれば、少なくとも人間は好んで争うようなことはしないであろう。そうではないから、社会=森は、つねに矛盾をはらんで、その結果、それぞれの木が苦しまなければならない。ジンメル(1858~1918)は、「森の中に入ってみないと、どんな木があるか、個々の樹木同士の相互関係もわからない」と語った。社会=森は巨大だから、個々の樹木=個人の力は小さなものでしかない。しかし、その小さな木がなければ森は形成されない。

 表現を変えれば、社会はなるほど巨大であるが、社会のツボ、これを突けば社会のあり方が変わるというものが見当たらない。ツボがない社会は巨大であっても、あたかも「虚」みたいであり、実際に存在するのは個人のみである。そうすると、個人が変われば社会が変わるというのは、1つの真理と考えてもよろしいであろう。

人生とは

 人生とは、個人がこの世の中で生きることである。一般的な人生という観念があるのではない。人生といえば、自ずから1人ひとりの人生である。この際、なぜ生きているのかというテーマはまことに厄介である。なにしろ、わたしは生まれたいと願って生まれたのではない。気がつけば生きていた。

 「なぜボクを生んだのか」と、親に文句をつけた体験があるかもしれない。生物学的には、両親が愛し合った結果としてボクが生まれたのであるが、両親にしてみれば、まさか、「なぜボクを生んだのか」と質問されるようになると考え、回答を用意して生んだのではない。原因があって結果があるが、原因を作った両親の意志とボクとは直結していない。偶然の産物! である。

 仮に、なんとか家の家督相続をさせるために生んだとしても、ボクが家督相続いたしましょうと合意して生まれたわけでもない。だから切羽詰まって、神様やこうのとりに責任転嫁してきたのであろう。

 「なぜボクを生んだのか」という質問に回答できないのだから、両親の意志なくして生まれたボクは、無責任の産物であるとしか言えない。生物学的にはまちがいなく親子なのだが、人間と人間の関係、社会的関係としては、無責任の後始末! として育てられている。

 まあ、幸いにも、「なぜボクを生んだのか」と、生みの親を被告として裁判を起こしたという話は聞かない。批判覚悟でいうけれども、生まれたときから戦火の中を逃げ惑い、難民生活に放り込まれた子どもたちの苦悩を引き合いにするまでもなく、「なぜボクを生んだのか」という質問に回答できないのは、世間の親はいずれも被告人としての資格が十分にある。

 実は、両親が未来のボクに相談しようにも相談のしようがなかった。はたまた、両親自身が自分たちの両親から相談された記憶がない。だから、意識しなかったとしても、かつて、ボクと同じ疑問を抱いたはずなのである。そこで、「なぜボクを生んだのか」と問われたならば、この経緯を語って、「生きているとは、そういうものだ」と答えるしかない。このように考えると、「母の日」、一応「父の日」もあるが、これらはいかにも責任逃れの上に、感謝までせよと居直っているという理屈にもなる。

 そこで、社会的孤児として生まれたボクとしては、気がつけば生まれていたのだから、いつまでも「なぜ生まれたのか」「なぜ生んだのか」などに執着していては前進できない。この問題はこの際すっぱりと放擲して、前を向くことにしたい。かくして、人生というものは、アンコンシャス・エンライトンメント(無意識の悟り)があってこそ、前に進めると考えねばならない。

ボクをボクたらしめる言葉

 それでは、次なる人生のテーマは何か? それが「人生をいかに生きるべきか」である。このテーマは全面的にボクの課題である。デカルト(1596~1650)が「ego cogito,ergo sum」と主張した。何を考えているのかはともかく、考えている自分がいる。ボクが自身でこのように考えつかないかもしれないから、ならば周囲が多少のお手伝いをしなければならない。

「もし、私が、私のために存在しているのでないとすれば、誰が私のために存在するのであろうか。

 もし、私が、ただ私のためにだけ存在するのであれば、私とはなにものであろうか。

 もし、いまを尊ばないならば――いつというときがあろうか」

* Talmud(タルムード)のMishnah(ミシュナー)にある言葉である。タルムードは、ヘブライ語で学習・研究の意味である。ユダヤ教で、モーセの立法に対して、十数世紀にわたって口伝された習慣律で、ラビたちが集大成した。本文のミシュナ―は、ユダヤ民族の社会生活を物語る。(広辞苑)

 1966年中央教育審議会が、「期待される人間像」と題して答申した。青年に愛国心や遵法精神を育成する云々で、期待されたわたしら青年は、極めて不愉快であった。人作りというが、粘土をこねくり回すようにはできない。それに比較すると、タルムードの言葉は美しい。個人の主体から出発する個人主義と、国家の鋳型的人間を作ろうと目論む国家主義との違いがわかる。

人生は自分の美学の作物である

 人作りとは、ボクがボクを作っていくこと以外にはない。自分の人生は自分が作るしかない。いかなる人生を作るのもボクの勝手である。子どもではないボクとしては、ボクの勝手とはボクの美学をめざして生きることである。

 ところで、美の基準は絶対的なこれというものがない。しかし、ボクの勝手であるからボクがめざす美を人生において表現すればよろしい。ついでにいえば、美という物差しにはプラスもマイナスもある。哲学的には、感性を刺激して内的快感を引き起こすものが「美」である。これをプラスとすれば、反対には「醜」がある。

アートのさまざま

 「人生を芸術する」の芸術とは、アート(art)である。理屈では、アートは材料・技術・身体を使って鑑賞的価値を作る活動(過程 work of art)であり、その所産(作物 work)である。狭い意味では、絵画・彫刻・工芸・建築・詩歌・文学・音楽・舞踏などを芸術であり、芸術活動というが、広く考えれば人間の活動はすべてアートである。

 たとえば、内的快感が得られるものはまちがいなくアートである。パティシェの作品であるケーキを食べる。食べるのがもったいないような美しい形をしている。眺めるだけでもすでに大きな快感が得られる。太りたくないと悲鳴を上げつつ、ケーキを頼まずにはいられない人は、アートの価値を堪能している。

 長野県野辺山に直径45メートルの巨大なパラボラ電波望遠鏡がある。宇宙の神秘を探るための機械であるが、その威容を目にした人は、宇宙に関心がなくても、爽快な気持ちになる。機械であるが、アートである。ある卓抜した機械技術者は「機能が優れた機械の外観は美しい」というのが口癖だった。これまちがいなく芸術家の言葉である。

 ハワイ島マウナケア山(標高4000m)に、世界でも屈指の観測能力を持つ電波望遠鏡がある。これの据え付け作業は数年を要したが、その仕事を指揮した技術者から、ぜひ、据え付け作業中の電波望遠鏡を見においでと案内をいただいた。もちろん完成した作品でなければしかるべく稼働しないけれども、完成を目指して活動している技術者にすれば、工夫据え付けの経過こそが芸術活動なのである。

 富士山頂気象レーダは、いまは撤去されて麓の博物館にあるが、数年前にも某テレビ局が取材に入った。3776mの富士山頂にある気象レーダは、今日のように人工衛星がない時代に、台風銀座で毎年甚大な被害が出る日本列島の人々を守るために1964年から稼働した。当時、世界最高の頂に設置された気象レーダは、厳しい山頂の条件に耐え得るために甚大な工夫がなされた。

 機械設計も大変であった。機械に使われる材料も、昨今とは異なって厳しい気象条件に耐えるものを探すのが大変であった。当然ながら、取材をうけた技術者は制作過程のさまざまな苦心を話したのであるが、放映された内容は失望するのに十分であった。なぜなら、絵にならないという理由で、富士山気象レーダの芸術的価値の部分がほとんど登場させられなかった。

 もちろん、テレビは動画が勝負だから、絵にならないものは扱いにくい。さはさりながら、富士山気象レーダの仕事の核心は技術にある。その技術がいかにして生み出されたのかという核心中の核心を描き得ないとすれば、いかに見てくれのよろしい絵が流されたとしても仏作って魂入れずである。

人生は芸術である

 人間をホモファーベル(homo faber)=作る人と呼んだのはフランクリン(1706~1790)らしいが、目的が単に美を感得するだけがアートではない。19世紀には、芸術とは何かについて議論沸騰した。大きく分けると、「芸術は人生のためにある」説と、「芸術は芸術のためにある」説の2つである。しかし、技巧が優れていても、人生に対する刺激がないものは芸術家の自己満足である。

 わたしは、芸術活動は人間と外界との関係にこそあり、他者の共感を呼ぶから真価があると確信する。美には美醜ありと前述したが、たまさか作物が醜であるとしても、人生に対する価値がないとは言い切れない。人間社会は美もあれば醜もある。いや、現実は醜のほうが多いに決まっている。美(快感)の表現に価値があるように、醜(不快感)を表現するのもおおいに価値がある。

 たとえば戦争が快感だという人はまずいないだろう。にもかかわらず世界各地で戦争がなくならず、つねに拡大に向かっているのはなぜだろうか。直截にいえば、本当に絶対に嫌ではないからである。だから、方法はなんでもよろしいが、誰もが戦争を拒否する気持ちになる表現を作品にすることができれば、作品そのものは醜であるとしても、世界を美的快感の方向へと歩ませられる。

 戦争を描いた文学作品を読んでも、大方は反戦意識に結びつかない。屍累々、破壊と殺戮、家族離散、絶望そのものを描いた小説の主人公の子どもが、たまたま親切な大人からおにぎりをもらって食べる。読者はほっとする。そして、時間が経過するにしたがって、小説の印象はほっとしたおにぎりのシーンだけが記憶に残る次第である。

 少し脱線したが、作る人としての人間は、つねに何ごとかを作っている。それはヘーゲル(1770~1831)が指摘したように、自分を吐き出して、自分を対象化するのである。それが美的快感であろうが、醜的不快感であろうが、わたしの作物であることにはちがいない。

 ここでいうのは、狭い意味で生産活動における生産を言うのではない。人間は、いかなる行動にしても、自分が必要だと考えるから行動する。その結果として、美であったり醜である。いずれであっても、それは自分の生命力の発現である。たまたま、自分の行動が他者の共感を得たり、あるいは批判を食らったりするが、自分が確信を持って行動する結果であれば、他人の評価は二の次である。

 むしろ、あらかじめ他者の批判を受けないように、あっちを見てこっちへふらふらというような行動をするから、生命力の発現どころか、自分が自分を裏切る行動を繰り返すのであり、他者から批判はされないかもしれないが、自分自身が自分に愛着を感じなくなる。これが、いわゆる自己喪失的人生であって、「なぜボクを生んだのか」とぼやく次元へ逆戻りしている。

 ニーチェ(1844~1900)は『この人を見よ』(1888)に書いた。「真の世界と思っているものは、実は捏造された世界である。現実と思っているものは、実は仮象である」。これ、言葉遊びの逆説ではない。「なぜボクを生んだのか」という次元にあるということは、自分の人生の手応えがないのである。人生の手応えは、子ども時代のように、誰かが与えてくれるものではない。

 世界は広いが、わたしが意識している世界はわたし抜きには存在しない。誰が何と言おうと、わたしの人生における主人公はわたしであって、余人をもって代えがたい。主人公であるわたしが、日々の活動を通じて有形無形の作品を作っている。

 絵描きが絵描き人生を作っているのであれば、わたしはわたし人生を作っている。人生とは、わたしがわたしの人生を作る意義である。わたしがわたしの人生を意識するか否か。拱手傍観していては人生を作られない。いまが気に入らなければ、気に入るように行動するべし。すべてはわたしが作っているのである。人生を芸術する精神の核心がこれである。

組合研究会2020⑤2020.03.11発表/人生を芸術する精神/奥井禮喜