週刊RO通信

買い占めに走る心理を考えた

NO.1348

 『微生物の狩人』(原題Microbe Hunters 岩波文庫)という本がある。著者のポール・ド・クライフ(1890~1971)は、もともとは細菌学・血清学の研究者である。ロックフェラー医学研究所を退職した後、作家に転じ、1926年に発行された本書は100万部も売れたそうだ。

 その最初に登場するのがオランダ人レーウェンフック(1632~1723)で、細菌学の扉を開いた人である。レーウェンフックは、デルフト市公会堂の門番をしながら、20年かけてレンズ作りの研鑽に努め、直径3ミリほどの小さなレンズを作った。このレンズを使った手製顕微鏡で、蠅の脳や植物の種子の断面、ノミの針やシラミの足を覗いて歓声を上げていた。

 たまたま落ちてきたばかりの雨滴を覗いて、雨だれの中の小さな生き物を発見した。彼は、それを「むさくるしい生き物ども」と名付け、計算して、小動物の最後のものは、シラミの目よりも1000倍も小さいことを知った。小魚の尾の毛細血管を見つけた。口中の小動物にも気づき、目に見えない小動物がはるかに大きな生物を食べ殺戮するものであることを知った。「1つの生命は他の生命を犠牲にして生きながらえている。残酷なことだ。しかし何ごとも神の摂理である」。彼は、オランダ語の聖書しか読まなかった。

 人間が活動を拡大したために、他の動植物が窮地に追い込まれていることを、現代のわれわれは知っている。その反動で、鹿や猪、猿や熊が人里に現れて、加害者が被害者になっている事実も知っている。顧みれば彼らの日常生活を破壊したのは人間である。これは、誰も否定できないであろう。

 目には見えないが、ウイルスもまた同じ現象に見舞われているのではなかろうか。ウイルスをインベーダーであると一方的に決めつけるのは、漫画的であるだけではなく、人間の傲慢というものである。はたまた、微生物なくして人間生活が存在しないことは、誰でも知っている。

 政治家の「この戦いに打ち勝つ」とか、「完全勝利する」といった言葉は、威勢はよいが焦点ボケの中味が薄いかけ声だ。科学的には、今回、なぜウイルスと人間との共存均衡関係が壊れたのか研究成果を期待する。政治家が戦いというならば、人々の社会が人為的に壊れないようにするしかない。

 3月25日夜の小池氏発言後、翌日にはさっそく買い占め・買いあさりの行動が発生した。全国スーパーマーケット協会は、メディアから取材が続き、26日11時49分には「食品の生産・物流は滞っていないし、閉店もしない。慌てないでください」とコメントすると同時に、メディアに対しては、(結果的に)「買い占め・買いあさりを煽るような報道をしないでください」とツイートした。社会システムの維持は個々人の行動にかかっている。

 花鳥風月を愛でる感性的文化はそれなりに風情があるが、一触即発で右往左往する感性的行動は美しくない。日本人はエートスなくパトス的だと指摘されてきた。状況に対するアンテナの感度がよくても、理性的行動に結びつかないのであれば、さほどほめられたものではない。

 日本人は、アパシー、とりわけ政治的無関心である。アパシーとは、政治家に対するのみならず、他者に対する不信感が根底にある。議論が下手くそである。他者を信頼せず警戒心が先立つから、自由闊達に自分の見解を述べられない。無意識のうちに自分を抑えつけているから、他者の発言も虚心坦懐に受け止められない。とりわけ都会人のコミュニティ意識が脆弱だ。

 これは、封建社会から明治以後敗戦までの間に極端な軍国主義国家としての舵取りがなされ、権力で個人の意識を抑圧する体制が成功した。表面的には一糸乱れず風に見えなくもないけれど、頼られるものは己のみの深層心理が牢固として形成されて、いまだその桎梏から抜け出せない。

 ウイルスとの戦いというならば、その勝負は科学である。一方、人為的混乱やパニックを起こさないようにするのが政治である。政治家が責任感の強い人ばかりで、人々が信頼しているからお任せなのではない。信頼していないからアパシーなのである。その結果、人々は政治家の発言によって、自分ができる範囲の小細工的な行動に走る。人間も所詮ちっぽけな存在である。見えざる危機には、理性的な懐疑をこそ対置しなければならない。日常生活を守りたければ社会的日常を維持する行動を確保したいのである。